学校で習う知識や技術の先取りは、あまり意味がないんじゃないかな

2020年度から小学校の授業でプログラミングが始まるから
おけいこ事としてのプログラミングの需要が
高まっているという。

当たり前のように読み流しそうな話だけれど
そうかな? それって、ほんとに、当たり前?

本来ならば、学校の授業で教えてくれるなら
更に教室で教わる必要なんてないよね??

・・・まぁ、こんなことを真剣に言ったら
教育熱心な保護者の人たちからは
現状をしらないのね、って、言われるのかもしれない。
学校の先生はプログラム教育の専門家ではないとか
限られた授業時間では充分にできないとか
全ての学校で環境が整っているとは限らないとか。

もちろん、子ども自身が興味を持っている
という幸せな動機で
プログラミング教室に通う場合もあるだろう。

でも、一般的には、学校の授業、という枠で始まる
新しい教科に対しては
「学校だけでは不安」と思う風潮が強い。

ただ、そう感じてしまうのも
仕方がないかもしれない・・・と感じる例もある。
たとえば、小学校の英語活動。
今、小学校の授業で行われている英語活動の授業は
(自治体、学校、先生による違いはあれど、総じて)
英語を習っていない子にとっては
何をしているのか目的と全体像がつかめず
英語を習っている子にとっては
物足りなさすぎる、という状況のように思われる。

参考:小学校における英語教育の現状と課題

でも。
冷静に考えて見れば
これは、英語やプログラミングなどの
「最近の授業」に限ったことではないよね。

例えば、音楽。
楽しく歌をうたうことはできるけれど
楽譜が読めないまま卒業する人も多数いる。

例えば、水泳。
学校の授業だけでは泳げるようにならない、と
夏休みに講習があったり、教室に通ったりする。

どうやら
技能習得型の教科は
大人数の授業には向いていないんだと思う。

尤も、学校で習う「技能習得」のうち
比較的多くの日本人が身に付けている
大きなものが2つある。
それは、「漢字」と「暗算(代表的なものは九九)」。
この2つが、なぜ学校教育で身についているかと考えれば
それは、この2つについては多くの保護者が
家庭でフォローしているからではないか。

結局、この2つも、大人数の授業だけではなく
家庭での「個別フォロー」があってこそ、なので。
そう考えると、やっぱり
技能習得型の教科は
大人数の授業には、向いていないのではないか。
個別に、その子の習熟に合わせて取り組む方が
きっと、身につきやすい。

読み書きも、算数も、英語も、
運動や芸術科目も
何かの技術の習得が目的なら
特化した教室に通えばいい、ってことになる。


ならば、学校の役割は何だろうか。
おそらく、技術習得ではなく
本当の「学び」を担う場こそが、
学校になるのだろう。
身に付けたい技術が細分化している今、
学校で、集団で学ぶことの意味を考えることは
本質的な「学び」は何かを考えることじゃないだろうか。


さて。コンピューターが担うことが日々増えて
これからの時代に生きる子どもたちは
少し前とは全然違う世界に生きる、と
言われて久しい。

コンピューターに多くの仕事を託せるようになり
人の役割は、自分で技術を持って手足を動かしたり
自分自身に知識を蓄えることではなくなる。
誰か(あるは何か)の技術が、
どんな風に活用できるかを思いついたり
知識が何に使えるかを考えられることが
求められるのだろう。

それは例えば、九九の答えを知っていることではなく
9人が2個ずつシュークリームを食べたい時に、
何個買えばいいのかを知るために、
掛け算を使えば便利だと、知っていること。

あるいは、あなたが愛しい、という言葉の意味を知っていることではなく、
ふさわしい状況で、ふさわしい声の調子で、
その言葉にこめた想いを
相手に伝えられるということ。

知識を使いこなすためには、多少は記憶しているものがあった方がいい。
技術を活用するためには、少しくらいの経験はあった方がいい。
でも、今までのように、
全部を暗記していたり、
全部を自分で「できる」ことは重要ではない。
「こういうことはもう誰かが調べたものがある」
「こういうことをできる人がいる」ことさえ知っていれば、
細かな内容は調べたり、他の人や機械に頼れば良い。

そして、知識や技術を
どうやったら使いこなせるのか
自分なりに知恵を絞って試してみる
その実践の場が学校になるんじゃないか。

実践の場では、決まった答えの通りにならない状況に
たくさん直面できたらいい。
例えば、30人で壁画を塗ろうとするとき
算数的には、1人が何平方メートル塗ればいいか分かる。
でも、実際には、塗る場所によって難しさが違う。
絵の構図によって、個々に塗る面積も変わるかもしれない。
個人の技術の差で任せられる場所も違うだろう。
そもそも、誰もが同じだけやる気になるかも分からない。
「こんなことしたって、何の意味があるんだ?」と言う
クラスメイトに対して、どう関わればいいのか。
何かをやりたい人の気持ちとやりたくない人の気持ちは
どちらも同じように尊重されるものなんだろうか。

そういう、何が正解なのか
あやふやに感じる、という感覚を持つことが大事だと思うのだ。

答えは1つではない。
同じ経験をしても、人によって感じ方は違う。
人間は理屈通りには動かない。
人の考えは変わるかもしれない。
そんな風に、「机上の計算はあてにならない」経験を
沢山重ねて欲しいのだ。

そんな理不尽は、
たまたま家が近かった、というだけで集まった
不特定多数の同窓生同士だからこそ
経験できるんじゃないか。
自分が選んだ気の合う仲間との協同作業からは
得られないかもしれない「想定外」に直面できるのが、
学校という場の魅力なんじゃないか。


やや抽象的な話になってしまったが。
学校には、
プログラミングができるとか
英語が話せるとか
楽器を演奏できるとか
プールで泳げるようになるとか
そういう、技術の習得を期待するより
もっと学校にしかできない魅力があって。

それは、1人1人が持っている「技術」を
組み合わせようとする実践と、
その実践が、想定通りにはいかないという経験。

そして、その「想定通りじゃないこと」を
あれこれ考えて、試してみて、意見をぶつけあい
何とか、「いいね」って満足できるところまで
形に仕上げていく、という成功体験。

そういう属人的で、
スマートじゃなくて
近道もなくて
答えもなくて
誰かよりも先んじることに何の意味もない
そういう場が
「学校」であればいいなぁ、と思うのです。

そして「学校」つまりは「学びの場」が、そんな場所になるために
私は、まず、「学び」を伝えていきたい。
「学び」って、ぐちゃぐちゃだし、難しいし、道は遠い、
でも、自分でやってみたいって思うことを
考えたり調べたり試したりしていくって

楽しいよね

って実感を、子どもたちや大人たちに沢山届けたい。
届けるための環境や、遊び企画を作りたいなぁ、と。
・・・そんなことを、考えています。