「好きなこと」には出合うんじゃない。育てるんだ。

遊びの世界には、
新しい何かができるようになる、が
絶え間なく訪れる。
 ボールを転がすことができる。
 つみきを積むことができる。
 紙をぴしっと折ることができる。
 縄をとぶことができる。
 鉄棒にぶらさがることができる。
 はみ出さずに色を塗ることができる。
 スキップができる。

できるようになる過程には、
誰しも得意なことと苦手なことがある。
あんまり苦労しなくっても
すっとできることもあれば
頑張っても頑張っても
思うようにいかないこともある。

うまくできることが、好きなことかといえば
必ずしも、そうとは限らないようで。
思い入れがないのか、物足りなくなってしまうのか
あんまり熱心に遊ばない場合もある。
・・・まぁ、人それぞれかな。

一方、できるようになりたい、と自分から思って
頑張って頑張って、できるようになったこと。
できるようになったけれど、
もっとこんな風にやりたい、と思える「先」があること。

そういうものに出合えた時
いつまでも、いつまでも、
遊び続けているなぁ、と感じる。
そうやって遊び続けたものは
思いが重なり、時間が重なり、
「好きなもの」になる。

そう考えると。
好きなものに「出合う」というよりも
好きなものに「育てていく」のかもしれない。


大人たちにできることは
「好きなものへと育つかもしれない」種と
出合えるようなきっかけを作ること。
(この場面では、大人から積極的に紹介してもいいと思う。)

そして、興味を持ったものを
やってみたいな、と動き出す時に
面倒くさがらずに、フォローすること。
(ここでイヤな顔したり、後でね、とか、言っちゃうと
 せっかくの出合いが次につながるチャンスを
 逃してしまう気がする。)

さらに、種を育てようとする姿を
見守り、応援し、大事にしていくこと。
(こうなったら、あまりお節介はしない。)

何を育てようか決めるのは、子ども自身だから。
大人たちは
「これをあなたの好きなものにしよう」とか
「こんな風に頑張って、こういう花を咲かせよう」とか
余計なことは言わない方がいい。
ただ、「こんな花が咲く」という例として
子どもたちが憧れを抱くような本物を味わう場を用意することは
いいと思う。


好きなものに「出合う」のではない。
出合ったものを好きなものに「育てる」んだ。
そう気づくと
好きなものが見つかるようにと
大人ができるお手伝いは
「色々なものを経験できるようにしよう」
一辺倒ではなくなる。

その子どもが、その遊びと
今どんな関わりかたをしているのか
状況を見て、考えて、
その時々に応じた手伝いの在り方がある。


ん?なんだか、 大人のできることが
少し具体的に見えてきたように思いませんか?