こども主体は、すべてを子どもに委ねるってことではない

こどもの主体性を大事にする
ということが言われて久しい。

「こどもの主体性を大事にする」ことに
異論を唱える人はいないと思うのだけれど
これが、「こども主体か」「おとな主体か」という
二項対立になった途端に
話がムズカシクなるような気がする。

端的に言えば、
大人として、こどもたちに提案したり
教えたり
何かを伝えたりすることに対して
臆病になっている人たちが増えているように感じる。

「子どもを叱ってはいけない」
「子どものすることを否定してはいけない」
「大人の都合で遊びを決めてはいけない」
「みんなと一緒であることを強要してはいけない」

・・・そんな言葉を受け止めて
でも、その言葉通りには、振舞えなくて
どうしていいものか戸惑う大人たちがいる。

しかも、大人になるまでずーっと
主体性が何より優先される環境に居られるとも限らない。
数年経てば「必要最低限のことは、大人の言う通りに学ばないといけない」
という、違う価値観を持つ世界へと、移る場合も多い。
尚のこと、悩ましくて、ややこしい。


こどもの主体性を大事にしよう、と訴えることが
極端な伝え方になってしまうのは
まだまだ「こどもの主体性が大事」という考え方が
浸透していないからなのだろう。

「未熟な存在であるこどもを、正しい方へ教え導くことが
大人の役割である」という風に、振り切った振り子を
バランスの良いところへと変えるには
逆の方に振り切ることが必要、という状況は分かる。

「こども主体が第一にあって、でも、それを促すために
大人から働きかけた方がいい場面もあるよね。状況次第で。」
・・・なんてメッセージは、インパクトがなさすぎて
何も訴えかけないことも、分かる。

分かるけれど、あえて、言いたい。

「その状況を見極めることが
大人の努めなんじゃないの?」と。


子育てには正解がない。
今の、こどもへの関り方が
正しいのかどうかなんて、分からない。
結果が出るのは、3年後かもしれないし15年後かもしれない。
その結果だって、変数が多すぎて
「今の私のこの行動」が正しかったのかどうか
客観的に判断することは限りなく困難だ。

正解がないままの行動は不安だから
「こう振舞うことが正解」という
分かりやすい答えが欲しくなる。
・・・当然のことだと思う。

当然のことだけれど
その「正解」を欲することは
目の前で生きているこどもと向き合うことと
離れていってしまうのではないかな。

世の中的な「正解」を求めるのではなく
目の前にいるこどもを見て
「こうしたらいいんじゃないかな」と
考え続けることが、必要なのだと思う。

そう考えていれば、例えば「遊び」の場面で
いつも「こどもがやろうとすること」だけを行うのではなく。
いつもと違う材料を用意しておこう、とか
新しい遊びを提案してみよう、とか
何をして遊びたいのか話を聴いてみよう、とか
「こども主体」と「おとな主体」の間にある
無数の選択肢が見えてくると思う。


「好きなこと」を見つけるのには
段階があると気づいた、と
昨日の記事
で書いた。

身内の例で恐縮だが
ムスコが動物好きになった、最初の出合いは
動物園に行ったことだった。

動物が好きだから動物園に行ったのではない。
休みの日の過ごし方の1つとして
定番の場所として、選んだだけだった。
もちろん、大人が決めた。

偶然、「バーバリーシープ」が
ごつん、と、ツノをぶつけあう場面を見た。
大人が観ても印象的な光景だった。

それで、
そのすぐ後のクリスマスに、動物図鑑を買った。
色々な出版社から図鑑は出ていたが
「バーバリーシープ」が掲載されているのは
2冊しかなく、その2冊の中から私が決めた。

その後、どんな順番で
動物が好きになっていったのかは、よく覚えていない。

夜寝る前には、動物図鑑をよく読んだ。
貼りはがしのできる動物シールを買えば、これもまたよく遊んだ。
一緒に動物の絵も描いた。リクエストされることもあった。

動物好きに育てよう、と思った訳ではない。
ただ、動物に関連する遊びや絵本があれば喜ぶので
大人が選ぶのは、自然に動物関係ばかりになっていった。

そのうち大人が手助けしなくても
自分なりの楽しみ方を見つけていた。

糊のはがれた動物シールを種類ごとに分けて、床の上に整列させたり。
上野動物園の地図を開いては、回り方をシミュレーションしたり。
空想上の動物園の地図を描いたり。

そうなると、大人の役割はほとんど終わる。
まさに「主体的に」どんどん遊びを広げていた。
けれど、最初のきっかけを作ったのは大人だし
きっかけが、好きなものとして定着すべく
いくつかの環境を整えたのも大人だった。

おもちゃの車を動かすのに
走り始める時は、ぐいっと力がいるように。
その後は勢いがついて、どんどん加速するように。


「こども主体」と「おとな主体」は
0か100か、という話ではない。
こどもが主体であるために、
大人たちにどんな提案ができるのか。

こどもが魅力を感じるような提案ができるように。
動き出した車を加速させるようなひと押しができるように。

大人の「あそび心」が、試されるのかもしれません。