「自分は自分だからいい」って思える拠り所があれば、きっと幸せに近づける

子どもたちに何を伝えたいのか、と
改めて考えてみる。

こども自身が、自分は幸せだな、って
感じられるような
心持ちを伝えたいなぁ。

「幸せになること」よりも
「幸せと感じること」の方が
しっくりくる。


ちょっと前まで
幸せ、というのは
自分の家とか車を所有するとか
一定以上の収入とか
家族構成とか
そういう、外から見た「形」を
意味することだったと感じる。
けれど
今からを生きる人に伝えたいのは
「形」ではない。

幸せ、ってきっと、
条件抜きで自分を肯定できること。
自分の存在を肯定できて
自分の置かれている状況を肯定できて
日々にそこそこ満足できること。

自分の存在を肯定するために
自分が完璧であることは必要ではない。
苦手なことも得意なこともあり
できないこともできることもあり
キライなこともスキなこともあるけれど
そんな凸凹をひっくるめた自分を
全部まとめて「これが自分だよね」って
言えることだと思う。

自分の置かれている状況も同様で。
毎日がイベントで、毎日がスペシャルで
いつだって大満足していることを
目指す必要はない。
普通にご飯を食べて、
誰かと話し、
仕事や勉強に向き合い、
誰かと笑い合う。
そして時折、
ちょっと嬉しい日があったり。
ちょっと落ち込む日があったり。
そんな「今」の状況を
総じて、いいよね、って思えたら
それは充分に幸せな生活。

大きな夢や目標を否定するつもりはないけれど。
夢も、目標も、
その「当たり前の今」の積み重ねの先に
あるんじゃないかなぁ。


たぶん、少し前まで
生き方の形を
幸せと呼んでいた頃は
社会全体が「幸せの形」は一通りであるかのように
勘違いしていたんじゃないか。
よく勉強して、いい学校に行って、いい会社に就職する
・・・という、よく語られる話。

画一的な教育に対して
同じ型に子どもをあてはめて
社会にとって便利な人を量産した、と
憎々しく語る文章を目にすることもあるが
その時の大人たちは
悪気があったわけではないのだろう。
その時は、本当に、
それが幸せだと
それが子どもたちのためだと
信じていたんじゃないかな?

世代的な話をするならば
たぶん私たちの世代は
子どもの頃は「幸せのパッケージ」があると言われ
あまり意識せず、そこを志向していたけれど
大人に近づくにつれて
その「パッケージ」が万能ではないことが
明らかになる、という、その狭間を経験した。

その変化は、最初は、
全員がその幸せのパッケージを
実現できないようだ、ってところから始まった。
でも、その結果、私たちは
今まで幸せだと思っていた「形」は
本当に誰にとっても幸せだったんだろうかと
考え直すことが、できるようになったんじゃないか。

みんなが幸せのパッケージを目指した頃、
一通りのように見えた「幸せ」だって
中身は、当然、全て違っていたはず。
自分の何を肯定するのか。
生活の何に楽しみを見出すのか。
人とどんな風に喜びを分かち合うのか。

そして、今、やっと
外側は同じような幸せのパッケージでも
中身はひとりひとり違うよねってことが
当たり前になりつつあり。
そうしたら、外に現れる幸せの形だって
ひとりひとり違って当然だよねってことが
受け入れられるようになってきた。

だから、今からを生きる子どもたちは
本当に
「自分の幸せ」が
目指せるんだと思うよ。


「幸せ」のかたちは
ひとりひとり、違う。
ひとりひとり、違うから
誰かに判定してもらうのではなく
自分で、自分を「いいよね」って
言えることが、
幸せであるために、
何より必要になってくるのだろう。

シンプルに言ってしまえば
子どものうちに、充分に
自分が自分であることを尊重されることが
大事なのだと思う。
いい子だから称賛されるのでもなく
何かができるから素晴らしいのでもなく
無条件の、そのままの自分が
尊重されること。

・・・とはいえ。
無条件のありのままの自分は大事にされる存在なんだ
という根っこだけでは
年齢が上がるにつれて
子ども自身も、ちょっと不安になるんじゃないかな。
きっと、拠り所が欲しくなる。

その拠り所を
「何かができるから」ってところに
求めてしまうと
優劣がついて苦しくなりそうなので。

「こんなにも電車が好きだから」
「ずっと絵を描いていたいから」
「歌をうたっていたら楽しいから」
「もっともっと知りたいから」
「なわとびが沢山跳べるとわくわくするから」
「こんなにも本が好きだから」
「やさしくできると嬉しいから」
「なんでかな、って、ずっと考えていたいから」

・・・というような
こんなにも夢中になれる何かがある、
ってところを
「だから、自分は自分でOK」って思える
拠り所にできたらいいと思うんだよね。


だから。
「自分OK」って言えるための
拠り所となるものに
どの子も、どの子も、出合ってもらいたい。
もちろん、その拠り所はひとりひとり違うから。
拠り所のタネを、たくさん、たくさん提供していけば
1つくらい「あ、これ、自分にしっくりくる」って
誰かが、何かに、ぴったりはまるかもしれない。

届けていきたい。
もっと。もっと。