「今」を生きられないとしたら、それはどうしてなのか

「今を生きる」という映画があった。
高校生の頃にビデオで観て、
自分らしく在ることを決意した高校生の姿が
心にじーんと沁みた。

そしてまた、同じころ聴いたスピーチの一節を
今も時折、ふっと思い出す。
それはこんな言葉。

   未来のため、未来のためにと今の楽しみを先送りにして
   いつも前のめりに生きるばかりで
   「今の自分」を生きていない。

言葉を思い出すというより、
直線の上の点の上に
前に傾いている人の「絵」が頭に浮かぶ。
自分の人生、という道なのに
「今」の瞬間には誰もいない。

「今、大変なことを乗り越えれば
あとになればラクに生きられるから
努力すること、苦労することが大切である」と。
強い言葉で言われた訳ではない。
目に見える圧力があった訳でもない。
けれど、世の中全体の価値観として
そんな考え方が当たり前だったようにも感じる。


そんなことを思い出したのは
小さい子どもを持つ母たちの話を聴いたから。
仕事や、時間をかけて打ち込むことのあった女性たち
とりわけ、成果を出し続けてきた女性たちにとって
仕事が休みになる育休の期間や
今までのような時間の使い方のできない時期は
それまでの自分が大切にしていたことが果たせなくなる
もどかしい期間。

とりわけ育休中は
子ども主導で時間が過ぎる。
いつもと変わらぬ公園に行き
機嫌を損ねたぐずぐずに付き合い
同じ絵本を何度も何度も読み
「何もしていない」のに1日が終わる。
何もしていない訳ではないのだけれど
大人軸の価値観になじんできた人には
「何もしていない」と感じる。

そして、育休のうちにできることを、と
学んだり、活動したり、繋がったりする。
再び仕事を始める時に
仕事人としてパワーアップした自分でいようと。

よく分かる。
一人の働く女性としては、私も似たようなものだった。
けれど、その時期を過ぎ、
子どもたちと母たちに関わっていると
また違う景色が見えてくる。

育休のうちに、子どもが小さいうちに
できることの中に
生活の喜びや楽しみに気づく、
ということが
あってもいいんじゃないかな、と。


生きることは文化だ。
季節の移ろいに気づき
美味しいものを食べ
おしゃべりを楽しむ。
その中に学ぶ喜びがあってもいい。

未来のために前のめりに生きるのではなく
「今」を生きる。
自分のために。
子どものために。
子どもに、今を生きることを楽しむ親の背中を
見せられるように。

いやいや、
子どもとの毎日は大変なことばかりで。
生活を楽しむ余裕なんてないよ・・・と
もし言われるならば

そこに私の為すべきことがあるかもしれない。

子どもの近くにいる大人たちが
生活を楽しむ余裕を持つために。
物理的な助け合いのしくみを作るとか。
生活のヒントを伝えるとか。
子どもとの向き合い方のヒントを伝えるとか。

みんなで生きてく、って
そういうことかもしれない。