「あなたの代わりはいくらでもいる」って思われない仕事をしていくために

あの人がいなくては
このプロジェクトは実現できない

そう思われる存在になれたら、って
願うことはあるだろうか。

あの人じゃなくちゃ、
この仕事はできないよね、って
思われていれば
他の人では代わりのきかない
唯一無二の存在になれて。
企業に所属していれば好待遇も望める。
個人で仕事をしていれば
仕事依頼だってどんどん舞い込むに違いない。

でも、それって
ごく一部の優秀な人だけに与えられる称号で
自分には到底及ばないって
多くの人が思っているんじゃないか。


あまり認めたくはないけれど
私たちが関わっている多くの仕事は
自分ができなくっても
誰かに変わってもらうことができる。
自分の事情で
今の仕事を続けられなくても
引き継いでくれる誰かがいて
それなりに、何とかなるもんだ。


私は会社員だった時に、2回、ほぼ1年間ずつ
育休を取得した。

出産まで、私が携わっていた仕事は
「今まで日本にない施設を作ること」だった。

「今まで日本にない施設」なんて豪語しても
内心では、こういう大きな施設を作るために
必要な経験が欠けているんじゃないか、という
不安は心のどこかにいつもあって。
だからこそ「今までに日本にない施設なんだから
この仕事の経験をした人が誰もいないのは当然」と
同僚と言い合い、鼓舞しあいながら、
立ち上げの仕事をしてきた。

そんなにも思い入れのある仕事を
休みに入る前には、新しいスタッフに引き継いだ。
そして、私が1年間お休みを頂いても
施設は変わらず前に進み続けた。

「大好きなキッザニア」が
変わらずそこにあることは嬉しいことだけれど
そこに自分がいる必要はない、ってことは
少しばかり寂しいことでもあった。
自分はいなくてもいいんじゃないか、という
コワさだってあった。

でも現実はそうなんだ。
たぶん、世の中の仕事の多くは
自分がいなくても、うまくいく。


でも、自分の変わりなんて
どうせいくらでもいるよね、ってあきらめるのは
やっぱり、納得がいかない。

「自分にしかできない仕事」は多くなくとも
「自分だからこその仕上がりの仕事」は
実現できるんじゃないか。
そして、「自分が」仕事をする、
ということの意味は、そこにあると思うのだ。


若いスタッフの教育係だった時のこと。
他の人とはちょっと違う文章を書く人がいた。
ごく事務的な書類・・・たとえば、
使い方を説明する手順書とか
これこれの資料を送りますという送り状でも
その人が作成すると
言葉の端々に人柄が出る。
ちょっとした労いの言葉が入っていたり
語尾がふっと口語調になっていたりするのだ。

もちろん、
その「ちょっとした人間らしさ」が
適切でなくて、修正することもあった。
でも、総じて、書類の向うにいる「誰か」が
感じられるその文章が、私は好きだった。

ありていに言えば、「手順書」や「送り状」は
そう難しい文書ではない。
ネットで検索すれば、例文だって見つかる。
そして、人間らしさがあってもなくても、
たぶん仕事全体のパフォーマンスとしては
大きく変わりはしない。
突き放した言い方をしてしまえば
誰に頼んだっていい仕事だろう。

でも、私は、この先、同じような場面があれば
わざわざでも、その人に仕事をお願いする。
最低限の機能を果たす仕事は
誰にでもできるかもしれない。
でも、合理的には必要のない
ちょっとした違いに
どこか人を惹きつけるものがあった。
仕事の中に「その人」がいた。

そういう仕事ぶりが大事だと思うのだ。


私の育休の話に関して言えば
休みを取得した間も仕事は進んでいたけれど
有難いことに、休みが終わっても
同僚たちは、ちゃんと迎えてくれた。

その頃から
自分だからこそ貢献できることって何だろうかと
意識して考えるようになった。

「他の人でもできるけれど
これは、あなたにお願いしたい」と
他者から思われるような成果を出すことは
自分のために、大切だと思う。

長い休みをとることがあったり
時間や場所の限度があったりと
働くことに、少しばかり制約がある人は特に
「それでも選ばれる何か」を持っていると
心強いんじゃないか。
働く母の実感として
自分にはいくらでも代えがいる、と
思ってしまうと、
仕事に向き合うことが苦しくなりそうだ。

「私にしかできない」仕事は難しくとも
「私だからこその色がある」仕事はできる。

必要とされる存在でありたいと思う。
そのために、機能的に必要とされるだけでなく
人柄、ならぬ、仕事柄が、
愛されるような仕事をしてくってことも
ココロに留めておきたい視点じゃないかと思う。

私も、そんな仕事をしていこう。