【小さな遊び】〈子ども×楽しい〉以外の視点で観ると新しい気づきがある

【小さな遊び】はFacebookページ[あそびのじかん]
日々掲載している遊びへの視点を、まとめてお伝えする
〈あそびコラム〉です。


子どもの心の動きを大事にできる遊び時間でありたい

2020年1月16日
遊びの道具の準備をして
その遊びに関連する絵本を持って
小さい子たちのところへ。
絵本を読んで
遊びのイメージを膨らませて
遊ぼう、と思った。
いわゆる「導入」と呼ばれる流れですね。

けど、小さい子たちは
私が絵本を読み始めると
「今日はこの人が
絵本を読んでくれる!」と
思ったのか

あとからあとから、
自分のお気に入りの絵本を持って
「どうぞ」ってしてくれた。

そして、読むんでしょ?って
わくわくした眼で
こっちを見上げた。

好きだなぁ、こういうの。

予定していたよりたくさん
絵本を読んで
遊ぼうと思っていたこととは
関係のない絵本だったけれど
そんなことはどうでもいい。

彼らが自分の好きなものを
シェアしてくれたから
とてもすてきな時間だった。

あそびの準備をするのは
子どもたちと楽しく過ごしたいから、
なので
子どもたち自身が
遊びたいことを提案してくれて
それを楽しめるのなら
準備したことにこだわらなくても
いいかなーと思うんだ。


大人もすてき

2020年1月20日
大人はすてき。
大人もすてき。

子どもの遊びの
すてきな姿を紹介すると
ついつい
「大人は忘れてしまったけれど
子どものこんなところがすてき」と
表現してしまいがちだけれど。

大人だって
充分すてきだよ、って
もっともっと
言葉にしていこう、と思った。

子どもの魅力は
大人を引き合いに出さなくても
伝えられなくっちゃ、と思うし。
大人だって
子どもより経験があって
他のことにも思いを馳せられる
だからこその
「すてき」が
きっときっと沢山あるはずなのだ。

子どもと大人の
どちらの立場にも
共感したいと思うからこそ
大人の「すてき」や
大人の「あそび」に
気づき、伝えていきたい。

週末出会った
大人たちの本気の「あそび」の
魅力的な様子を見て
ふっと、そんなことを思ったのでした。

子どもには、大人が忘れてしまった世界があり
その世界がとても魅力的
・・・という風にしか
子どもの「すてき」が
伝えられないとしたら
まだまだ私の
力不足かもしれない。

子どもは、誰と比べなくても
そのままですてき。
同様に、大人も、誰と比べなくても
すてきなところが
たくさんたくさん、ある。

本気であそぶ大人たちが
すてきだった。
そういう「すてき」も
沢山伝えられる人でありたい。


想定外の遊び方の中に、発見がある

2020年1月28日
絵の具であそんでいると
汚れないためにと紙の下に敷いた
ビニールに描く子がいる。

はみだしちゃったんじゃなくて
あえて
ビニールに描いている。

あれ?
感触の違いを
味わっているんじゃないか?

紙のざらざらした感じと違い
筆が、つるつるすべる。
絵の具もしみこまないではじく。
ぽつぽつした小さな水玉ができる。
紙とは全然ちがう。
ほんとだね、どうしてだろう?

絵の具の変化を楽しむなら
描くところは
紙だけじゃなくてもいいよね。

彼らの姿を観て
そんなことを楽しんでるのかな、って
思っただけなんだけどね。

子どもの振る舞いを
「いたずら」と
決めつけない方が
いいかもな、と思う。
なんで、そんなことするのかな?
なにを、たのしんでいるのかな?
そう思うと
私の気づいていなかった楽しみ方を
教えてもらえるかもしれない。


楽しくない、に出会うことも、大事な出会い

2020年1月29日
「こんなに手ぇよごれちゃった!
もう、このあそびはしないよ!」と
わざわざ報告に来てくれた子がいた。

もともと
遊びたい人はどうぞ、と
声をかけて
いつ初めてもいつ終わっても
遊んでも遊ばなくてもいい、という場。
「これで、おーわり」と思えば
終わりにすればいいんだけれど。

わざわざ言いにきたのは
なにか思うところがあったのかもな。

自分の方を見てほしかったのか。
もっと他に遊びたいことがあったのか。
あるいは、
用意した遊びに盛り上がれないことに対して
その子自身にもどかしさがあったのか。

子どもたちに
遊びを提案する場を頂く時は
全ての遊びが
全ての子どもにフィットすることを
目指さなくてもいいかな、と
思っている。
とりあえず試してもらいたいけれど
ぴんとこない、と思う人がいてもいい。
そうじゃなくっちゃ
「誰しもこれを楽しまなくちゃいけない」
ってことになって
遊びの本来の目的と違ってしまうと思うんだ。

そうは言っても、
大人の期待に添おうとする子ほど
ぴんとこない、ってことに対して
もやもやした気持ちを
抱いてしまうことってあるかもしれない。

だけど、
それでいいと思うんだ。
その、もどかしさだって
自分の好きなものや
自分にしっくりくる感覚に出合う
大事な1歩であって。
ネガティブな感じを抱いてもいい。

その子にとって
汚れるかどうかが本題ではなく
きっと、何かが
ぴんとこなかったんだろう。
それでいいんだ。
次にまた何かに出合って
いつか、しっくり楽しめるものに
出会えたらいいと思う。

一見ネガティブに思える言葉。
なんで、そんなことを言うのかな、と
考えていくと
子どものココロの複雑さって
なかなか興味深いなぁ。


今しか味わえないからの魅力

2020年2月25日
色の名前は
1つじゃない。

もう1度
同じものを作ろうと思っても
もう決して作れない。
今だけの魅力だな。

子どもの遊びは
こんな風に
「今しかない」ことの
積み重ねなのかもしれないなぁ。


気持ちの繋がりを考えて遊びの場を作る

2020年2月26日
この「人形劇舞台」が
人形劇シアターのロビーに
置いてある、というのが
とってもすてきで。

人形劇を観た子どもが
その感動が冷めないうちに
自分で遊べる。

子どもの気持ちが続くところに
続きの遊びができる環境がある。

こういう自然な流れを
意識したいなぁ、と思う。

いい環境、っていうのは
自然で、無理がなくて
一見、その工夫に気づかないけれど
実は考えられているのだろうなぁ。

子どものココロの流れに
自然体で沿うような
そういう場を創れる人になりたい。


世界が広がるスペシャルアイテム

2020年2月27日
虫メガネで何を観るかではなく
「見る」という行為が
大事なんだな、と思う。

子どもの興味の入り口は
「興味があるから見る」
だけではないよね。
「見てみた!」
でもいい。

今、何を面白がっているのかな、と
子どもの視点に立てることを
大事にしたい。


子どもにとって
世界が広がる
スペシャルアイテムという
分野があるような気がします。

…と 、ここまで 書いて
あぁ 私 そういう
違った世界へのカギになる
そういう おもちゃを
創ろうと思っていた!という
社会に出てすぐの頃を
はっと 思い出しました。