【小さな話題】自らあそぶための余白(6月のあそび風景から)

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日々の小さな遊びの風景に目を留めたり、遊びについてふと立ち止まって考えたりすることを目的としたページです。

運営側の意図としては、『あそびのじかん』を出版してから、「あそび」を自分らしさの1つとして大事にするべく、

日々感性を磨いていたいという想いもあります。

facebookに投稿した「遊びの風景」を、こちらにも随時載せていくことにしました。


6月12日
【あそびをおもう】
遊ぶための道具には
遊び方を誘導するものと
遊びを決めないものとが
あるように思う。
ボールや、積み木や、おはじき。
シンプルなブロックや紙なんかが
後者になる。

遊びを決めないモノを見た時
「こうしてみよう」と遊び始める子と
「どうやって遊ぶの?」と大人に聞く子と
両方のタイプの子どもに出会った。
4~5歳くらい。

小さいうちに
どういう遊び経験をしてきたら
遊び方の決まっていないものをみて
自分なりに遊ぼうとするようになるのかな?

教える、という行為自体が
何らかの方向性を示すものだとしたら
「自由な思いつきを教える」って
何だか矛盾していて禅問答みたいだ。

ここしばらく、私のテーマになりそうです。

「自由な発想」って
教えられる時点で、
自由じゃない気がするけど。
じゃあ、どうやったら身に付くの?


6月13日
【あそびをおもう】
こどもが興味を持つものに出会えるように
まわりの大人たちが
多様な経験を
たくさんたくさん提供することが
いいことだと、思ってきました。
でも、これも程度が過ぎると
いつもいつも、色々な経験を提供され
「楽しいことを与えられるのを待つ」という
受け身中心になる、という一面もあるなぁ、と
近頃考えたりしています。

空白も残した方がいい。
子どもが自分から
楽しもうとするための時間。

沢山あればいい・多い分には困らない
・・・ってばかりも言えないなぁ。

これは、遊びだけでなく
園や学校のカリキュラムとか
こどもの1週間のスケジュールとか
他の場面でも、同様かもしれません。

過ぎたるは及ばざるがごとし、かな。

昨日の話題とも繋がるなぁ、とも。

いかに与えすぎないか。

というテーマ。