9時に出勤、という行動は、一人ひとりの勤め人にとって、どんな意味を持つのだろう。「9時にはその場に居なくちゃいけない、という約束」と思うのか、「今日は、この仕事を仕上げたいから9時には取り掛かろう」と思うのか。
前者の人は、台風だろうが、大雪だろうが、電車のダイヤが乱れようが、何とかして会社にたどり着ける方法を探して出社するに違いない。一方、後者の人は、環境さえあれば、自宅や近所で仕事を始めているだろう。
台風の影響で、鉄道網が大きな打撃を受けた月曜日の朝。多くの人が、電車に乗ろうと駅に向かい、ホームに入れない人は駅の外にまで行列を作った。一方で、そんな勤勉さに対して疑問を抱く言葉も目にしたし、午後出社やリモートワークという選択をした、という声も耳にした。価値観の変わり目にいる、という実感があった。
ただ、雇用主の対応を問うている状況は、まだまだ価値観の「変わり目」でしかない、とも思う。働き方の決定権が、まだ、自分ではなく、雇用主にある状況なのだろう。でも、自分の今の仕事が、その場に行くことの重要性がどれくらい高いのか、それに応じて何をしなくちゃいけないのか、その判断をするのは、会社ではなく個々人であって欲しい。
打ち合わせの予定があれば、天気予報が分かった時点で予定を変えようと先方に相談したらいい。自分がその場に行く必要があるなら、前日から近くに泊まるしかない。
自分の仕事の状況を常時報告しているチームリーダーに相談することはあるにしても、仕事の重要性や、自分の存在の必要性は、自分で判断できなくちゃいけないはずで、それは会社に委ねることではない。会社、という大きな組織が、全社員の仕事状況にあてはまるたった1つの解を提示できる訳じゃない。「個人で判断してください」って言うしかなくて、大事なのは「個人の判断」による行動に対して文句言わないこと。
そんなことを考えていたら、ふと、仕事に対する自分のこの考え方は、フリーランスで働くよりも前に身についたものだと気づいた。2つ目の会社で一緒に働いていた上司の影響だ。
その上司は、必要なアウトプットを出していれば、働き方にはこだわらない人だった。時短勤務でも、子どもが熱を出して急に休むことがあっても、対応策を提示できれば、嫌な顔ひとつしなかった。だから、自分の進捗を的確に伝えられることと、全ての資料を私がいなくても取り出せるように共有のフォルダに整理しておくことに、一番気を使った。(時短でも満足のいく働き方ができたのは、この人のおかげと本当に感謝している。)
一方の上司自身も「ちょっと打ち合わせに行ってくる」と、詳細を告げずにふらりと出かけて行くこともあり、率直に言えば、お互いに気楽で、快適だった。
その気楽な状態を支えていたものは、「相方のアウトプットに対する不確定要素というリスク」が、限りなく少ないことだったんじゃないか、と今になって思う。仕事の状況に応じて、いつまでに何をしなくちゃいけないか、何が完成していればいいのか、双方のイメージのすり合わせは、いつも大事にした。長く一緒に働いていたので、お互いの手の内が分かっていたことも幸いした。
リーダーの立場の人が、働く部下と同じ空間で働き、働きぶりを見ておくのには、もちろん積極的な理由もあると思っている。任せた仕事を進めているか、困っていないか、間違った方向で進めていないかなどを、部下の様子からくみ取ることは必要なことだろう。特に、働き始めの若い人に対しては、様子を見ながら、小まめに教えることも多い。
でも、任された仕事を、自分のペースで進められる人には、もうその目は必要ない。勘所を抑えて、随所に確認をして、必要な時までに、モノが仕上がっていれば困らない。
そう考えると、仕事を快適に進めるために大切なのは、「勘所を抑えた随所の確認」の「勘所」をはずさないことじゃないのか。
そして、この「勘所」は、上司と部下、の組み合わせの数だけ、全部違う。上司のタイプによっても、部下の仕事の習熟度合いやセンスによっても違う。この、個々に違うことを自覚して、使い分ける、ってことが、個々人の裁量で仕事を進めていく時には必要になると思うのだ。
ちょっと話が飛躍するが、来年のオリンピックまでに、「何が何でも出社しないとできない働き方」で働く人を、もっと劇的に減らさなくっちゃ困るだろう、と思っている。もちろん、働く母の立場でも、そこが柔軟になると有難い。
職場に行かなくても働く働き方は、技術的には進歩しつつある。もう1歩進めるために必要なのは、個々人の判断で仕事を進めることが、チームにとってリスクにならないような関係性を、意識して作ることじゃないかな、と、思うのだ。
まずは、個々の組み合わせの勘所の確認からを始めたらどうだろう。きっと、ふっと自由度が高くなるよ。