書いてから気づいた。〈新しいことを知ることは喜び〉というのは確かだし、この記事で言いたかった主題ではあるけれど、話をそれだけで終わりにしてはいけないな。
新しいことを知ることは喜びだ、そうだそうだ、って言うだけでは、今、知識を得ることが苦痛になってしまっている人の状況は何も変わらない。〈新しいことを知ることは喜び〉が大前提だと考えるなら尚のこと、その喜びを目一杯感じられるためにできることを、本気で考えなくちゃ、と思う。
あそびは〈知識〉にもつながる
子どもたちが、沢山のことに出会い、興味を持てたらいいよね、とずっと考えている。あそびについて発信しているのも、〈あそび〉というわくわくする経験のなかから、世界を広げてもらいたいと思っているから。〈あそび〉をきっかけに新しいことに興味を持てば、それは〈知識〉にもつながる。
ただ、〈あそびの専門家〉と言いながらも、いつも迷う局面がある。それは、〈ちょっと見ただけでは分からないかもしれないけれど、実はすっごく楽しいんだけどなぁ〉というものの魅力を、どうやったら伝えられるのだろう、ということ。
どこまで手を出していいのか いつも迷う
例えば、縄跳びや鉄棒、けん玉やコマ回しのように、楽しくなるまでに少し練習が必要なあそび。ちょっと年上のお兄さんやお姉さんの姿に憧れて、とか、絵本やテレビに出てきたから、とか、興味を持つきっかけがあり、できるようになりたい意欲はある。でも、その意欲と、できるようになるまでの過程の差が大きいと、「できないから、やーめた!」となってしまう場合も多い。
そうすると、あー、もう少し頑張れば、楽しいところに到達するのに、と、見ている立場としては何とももどかしい。「もう少し練習したらできるようになるかもよ」と声をかけてみたり、一緒にやろうと誘ったり、ちょっとコツを教えたくなったりと、つい、こちらが頑張りすぎてしまう。
「きっかけを整える」さじ加減がムズカシイ
子ども自身が、興味を持ったものをぐいぐいと深めたらいいよね、と思う一方で、子どもが自分のチカラで出会えるものって、やはり限られているから、新しいものと出会えるようなきっかけを大人が整えることも必要だと思う。
その「きっかけを整える」さじ加減がムズカシイ。手が届き、目が届くところに、面白そうな本や、素材や、本物の品物を用意しておく。最初にいきなり声をかけない方がいいような気がする。
でも、もし、目に留まったものを手に取った人がいたら・・・どうしよう。
興味は持ったものの使い道が思いつかずに、また元の場所に戻してしまう人がいたら・・・どうしよう。
何にも興味を示そうとせず、退屈そうにしている人がいたら・・・どうしよう。
どこかで声をかけたくなってしまいそうだ。
そして、声をかけたら最後、こんな風に遊べるよ、こうやったら楽しいよ、こうやったら上手にできるようになるよ・・・と、あれもこれも教えたくなってしまいそうな気がする。
知識を得る楽しみに関しても、同じ状態になりがちだ。新しいことを知ることは楽しい、とはいえ、その喜びを感じるまでに時間がかかる場合もある。最初はよく分からなくても、ある程度知識を得たところで急に視界が開けてものすごく楽しくなる場合もある。その楽しさに到達する前に、「つまんないからやーめた」という状況になった時に、「まぁまぁ、ここまで分かると楽しいからさ、もう少しやろうよ」と、どれくらい引き留めてもいいものか、迷う。(だって大人にやろう、って言われると、子どもたちは気が進まなくても合わせてくれるから。)
そして、迷いながらも「これは、きっと好きそうだっと思うから、もうちょっと頑張ろう!やろう!」と引き留めたら、自分を抑えていた何かがはずれて、これもやってみようか、これもできると楽しいよ・・・と、あれもこれも教えたくなってしまいそうだ。
楽しみを知っているから教えたくなるけれど
あれ?そう考えていくと、〈教えたくなる〉という関わりが、よろしくないんじゃないか。
教えたくなる、というのは、私から誰かへ、私の知っていることを伝達する形。だから主体が私になってしまう。色々なことに興味を持ちたいのは、子どもたちなのに。
〈あそび〉の例で言えば、〈憧れの●●〉というわくわくを、大人がゴールに設定して、そこに向かって真っすぐ進むことを想定するから、達成できるようにと教えたくなってしまう。そして〈できたか〉〈できなかったか〉という白か黒かの結論を出してしまう。
でも〈憧れの●●〉は興味を持つきっかけに過ぎないって思えば、どうだろうか。例えば、なわとびで20回跳べることをゴールに設定するのではなくて、その憧れは頭の片隅にありながらも、今は、なわとびという素材を使って、どんな風に楽しく過ごせるか、子ども自身が主体になって、あれこれと試してみればいいんじゃないか。なわとびの跳び方は、聞かれた時に、教えたらいい。もしかしたら、子どもが自分で発見するかもしれない。
そうしたら、なわとびに興味を持たない子を誘ってみる時の声掛けは、「跳べるように一緒に練習しよう」ではなくて、「これで、どんな遊びができるか一緒に考えよう」になるんじゃないか。
自分の体験を通して知識を得る
知識を得る時も、同じことかもしれない。
子どもたちが「ねぇねぇ、知ってる?」って、伝えようとすることって、子どもたち自身の能動的な動きから得た知識であることが多い。自転車の練習をしていたら自分でコツを見つけた。恐竜図鑑を見ていて発見した。積木を積んでいて気付いたことがある。・・・という具合に。
〈知らなくてはいけないこと〉として一方的にインプットされるだけではなく、自分の体感を通したり、法則を見つけたり、他の人と意見を交わしたりすると、それだけで〈知識〉に愛着が湧いて、新しいことを知ることが楽しくなる。生活の中で得た知識だって、学校で知る知識だって、同じことだ。
(ところで、こういう話をすると、今の教育の在り方について心配する人も多いのだけれど、私には1人1人の先生は、子どもたちと向き合うことを尊重して、それぞれに工夫しながら学級運営をされているように見えます。今日は、学校という組織の話ではなく、子どもたちの近くにいる大人、特に保護者が、子どもを見守るスタンスとして、どうありたいか、という想いで、この記事を書いています。)
〈学び〉を見守れる大人でありたい
〈新しいことを知ることは楽しい〉という確信が強くなりすぎ、その楽しさを、子どもたちにも伝えたいという想いが募ると、知識をぐいぐいと教えたくなりがち。それは結果的に、子どもたち自身が主体になって、〈自ら知識を得る機会=知識を得る楽しみを味わう機会〉を失ってしまうことになってしまう。
〈新しいことを知ることは楽しい〉と知っている大人だからこそ、子どもたちが、自分で試したり、失敗したり、遠回りしたり、あれこれ考えたりする過程を、余裕を持って見守りたいと思う。
そして、この記事ではずっと〈知識を得る〉という言葉を使ってきたけれど、自分が主体になり、体験の中から知識を得ることは、〈学び〉であると思う。その〈学び〉から、自分の考えを紡ぐための材料を獲得するんじゃないのかな。
〈学び〉を見守り、時にサポートができる大人でありたい。