「子どもたちの自由な表現は本当に素晴らしい。だからって、キャラクターの絵を描いた作品を否定していいわけじゃない」そう言われたことがある。
子どもの造形遊びの講習を受けに行った時のこと。子どもとの活動を座学で学ぶ時間があり、実践があった。その時は、一見ガラクタのような素材を段ボールの上に自由に貼って、名前の付けようのないオブジェを作ったりした。
その後の座学の時だと思う。
絵の具やクレヨンを自由に使い、自分なりに表現ができる子どもの作品は本当にすてき。ただ、そういうエネルギーに溢れた作品を素晴らしいね、って言ううちに、無意識に「自由な作品は素晴らしい」「アニメや商業キャラクターの絵を描くのはつまらない」って、序列をつけていたんだと思う。どうしたら、お姫様ばかりじゃなくて、こういう表現を引き出せるんだろうね、という会話もしたような気がする。
お手本を示し同じような作品を作らせてしまうのはつまらない、子ども個々の自由な表現を引き出したい、と考えて学んだ講習だった。それなのに、素敵な表現の在り方を知ってしまうと、それが「正解」になってしまい、そうじゃないものを、つい、違うよね、って言ってしまう。こうなりたくない、と思っていた〈大人の思惑通りに描いたものを良いものとして評価する〉ことと、発想は変わらないと気づき、どきっとしたのだ。
私たちは無意識に「これが子どもらしい」というステレオタイプを、彼らに期待しているような気がする。発想が柔軟で、大人は思いつかないアイディアに溢れていて、自由な思索ができて、好きなことを伸び伸び表現する、って。だから、常識に則った意見を出したり、大人に怒られるんじゃないかと慎重になったり、失敗したらどうしようと手を出さなかったり、という姿を「子どもらしくない」という風に、評価してしまっているんじゃないかな。
子どもの自由な発想を大事に・・・と言うと、子どもの気持ちに寄り添っているような気がするけれど、1人1人の子どもの姿を見ることなく、〈型にはまっていないように見える〉という表面的な部分だけを捉えて、子どもに理解があるような気持ちになっちゃあいけないな、と思った。
1人ずつ違った子どもらしさを持っている。大人の顔色を読む人、いつも誰かと比べている人、先の見通しが持てないと不安な人、失敗したくない人、汚したくない人、テレビコマーシャルが大好きな人、テレビに出てくるヒーローになろうと思っている人、みーんな子どもらしく、その子らしい。こんなに情報にさらされ、人と人との関わりに神経を使い、商業的なコンテンツが溢れる現代で、子どもだけがその影響を受けずにいられるはずはないのだ。
例えば、大人の顔色を読む人を、子どもらしくないよね、と断じるのではなく、他の人に心配る細やかさを持っているんだね、とまずは受け止めたい。ただ、そのままだったら、生きづらいんじゃないかな、と感じる時には、どうやったら自分の希望を伝えられるかを一緒に模索する、というアプローチは取ると思う。その時に、今の在り方を否定したり、それまでの育ちから原因探しをすることにはあまり意味がない。「こんな風に生きていきたい」という答えは、その子自身が持っている、という意識で関わることが大事なのだろう。
こうあればいい、と願う子どもの姿が「大人に都合のいい子ども」から「自由な発想を持った子ども」に変わったところで、自分の中で基準を作り、子どもを評価してしまっていることには何も変りはない。それよりも、目の前の、等身大の振る舞いを受け止められる度量を持ちたい。
自由な表現の在り方を学んだり、子どもが伸び伸び過ごす環境の作り方を学ぶのは、理想像を作り自分の間口を狭くするためではない。どんな振る舞いが来ても動じず、その子らしさとして受け止めるぞ、という自分の守備範囲を広げるためでありたい。