出版不況にも関わらず、絵本は好調だという新聞記事を読みました。絵本が好調なのは良いのですが、好調の背景として伝えられていた
「ゼロ歳児から絵本を読ませる親が求めるものは効果」
「ゼロ歳児でも見せると脳が活性化する」
「言葉が早いとイヤイヤ期が短くて済む」
・・・と踊る言葉の数々に違うよねー、と叫びたくなりました。
もちろん絵本を読むと いいことは沢山あります。「効果」もあります。でもその「効果」が発揮されるのは、こどもが絵本が大好きだから。親自身が絵本を楽しむからであって、効果ありきではない。
とはいえ、効果だけを求めてこどもに絵本を提供するのは筋が違うよね、って批判したところで何の解決にもならないのも確かです。
現実問題として、母たちは教育的な側面から「遅れてはいけない」と、どこか不安を感じてしまっているように見えます。こどもに良いものを不足なく与えなくてはいけないというプレッシャーも抱いている。その不安とプレッシャーから生まれてきた現象が「絵本を読めば、っ子どもの脳が活性化して、言葉も出るようになって、いいことばかり」という「何かをすれば大丈夫」を心のよりどころにして、焦りを解消しようとする姿なのでしょう。
ならば私にできることは「効果を目的に絵本を読むこと」を批判することではない。なにがしかの効果を期待して絵本を手に取った親子に、打算抜きの楽しさを伝えること。最初は「脳を活性化させたい」と思って、絵本に出会っても、そこから、理屈以上の楽しさに出会えたらいい。ムシロ、そこで楽しさを伝えていくことが、私の役割だなぁ、と改めて思うのです。
児童センターや地域センターなどで、「絵本とあそびの時間」を行うことが好きなのは、そこで絵本を楽しむ子どもの姿が本当に好きだからです。
例えば、ある日集まってくれた子どもたちは、ほとんどが0歳児さん。0歳児さんの絵本は、子どもの鼓動の早さに合わせるように、ゆったりと読むことを意識しています。私もお話会を始めた頃は、小さいお子さんの興味が別のところに移らないようにと、早いテンポの手拍子のように、高揚させる読み方をしてしまっていました。もちろん、それはそれで、子どもたちは「何だろう??」と目新しいものへの興味を持って振り向いてくれます。けれど、子どもたちの興味を集めることが私の目的か?と考えれば・・・そうではない。子どもたちが絵本を介した時間を心地よく過ごして欲しい、と思えば、子どもたちのテンポにこちらが合わせた読み方の方が大事です。最初は、子どもが途中で別のことに興味を移すのではないかと、こわさもあったけれど、子どもたちは過剰な刺激がなくても、心地よさを感じて、最後まで見てくれるのだ、ということを経験しました。
子どものテンポに合わせた読み方は、大人にとってもゆったりできる読み方です。そして、大人に対しても、「早くあれをさせなきゃ、とか、あれができるようにならなきゃ、ではなくて、自分たち親子の心地よいリズムが大事だよね」ってことを、言外に伝えることができるのかな、と思っています。
この日は、食べ物をテーマにした絵本を読みました。りんごの絵本を読んでから、りんごを取り出すと、こどもたちがみんな興味津々で寄ってきます。さわったり、転がしたり、ちょいとなめてみたり・・・。新しいものに夢中になる姿は、世界を拡げようとする姿にも見えて、本当に愛おしい。こんな風に、絵本で味わったことを、実感として楽しむような方法も、経験して頂いています。
絵本を読むことで、親子が受け取る宝物は、本当に沢山あります。もちろん、言葉も知識も増える。集中力もつく。感性も育つ。でも、私にとって、絵本に一番助けられたと思うのは、おとなとこどものコミュニケーションを助けてくれたことです。0歳の頃、言葉の通じない赤ちゃんにも沢山話しかけることは大事、と知っていても、多くのお母さんは何を話したらいいのか分からない、と言います。でも、絵本が1冊あれば、そこに描かれたものを指さしながら、「〇〇だね」「〇〇してるね」「なにしているのかな」「うれしそうだね」と、色々にお話をすることができる。
おとなとこどもが、お互いにつながりたい、という想いがあって、それを助けてくれるのが絵本だと強く思っています。
その関係性は、年齢があがっても変わりません。絵本は、おとなと子どもの共通の言いまわし、共通の遊び、共通のイメージを増やしてくれるのです。
結局、入口なんて、どこでもいいのだと思う。最初は「脳を活性化させたい」と思って、絵本に出会っても、そこから、理屈以上の楽しさに出会えたらいい。ムシロ、そこで楽しさを伝えていくことが、私の役割だなぁ、と改めて思うのです。
絵本は魅力的だと思うからこそ、批判で終わらせるのではなく、楽しさを伝えたい。その先には、予想もしていないような広い広い世界に出会えるから。