[あそびのじかん]というfacebookページを運営しています。
日々の小さな遊びの風景に目を留めたり、遊びについてふと立ち止まって考えたりすることを目的としたページです。
運営側の意図としては、『あそびのじかん』を出版してから、「あそび」を自分らしさの1つとして大事にするべく、
日々感性を磨いていたいという想いもあります。
facebookに投稿した「遊びの風景」を、こちらにも随時載せていくことにしました。
8月1日
【あそび いろいろ】
ラジオ体操。
年長の娘にとっては
「なんか すごく いいもの」らしい。
憧れが、うまく行動とつながれば
動機なんてものは
ぼこぼこ湧いてくるんだろうなぁ。
にぃにみたいに
行きたくて仕方がないラジオ体操。
母は、週末しか
一緒に行ける余裕がないからねー。
こうやって、
小学生がキラキラして見えるんだろうなぁ。
8月4日
【あそびをおもう】
イベントが始まるまでは
離れたところで本を読んで
無関心を装っていたのに。
何だかんだで記録写真撮って
結局工作のサポートもして
主催者さんに渡すサンプル作って
なんだか満足した顔をしてました。
ムスコよ、仕事とは楽しいものだ。
ムスコ撮影。
記録用にと、顔のうつりこまない
なかなか「分かっている」
構図で撮っております。
8月14日
【あそびをおもう】
娘 年長の夏。
4年前 息子 年長の夏。
同じ学年の写真を見比べて
息子の小ささに驚く。
私の記憶の中で
今の娘よりも、しっかりしていて
頼れる「おにいちゃん」だった息子は
写真の中では、
むしろ今の娘より幼いくらいで。
(実際生まれつきが違うので
娘の方が月齢が高いのだが。)
昨日より今日、今日より明日、と
いつも新しい姿を見せてくれる第1子。
兄姉のお手本のおかげでどんどん成長しても
先を行く兄姉がいつも隣にいる第2子。
大人の感じ方が違うのは
当然と言えば当然なのだけれど。
求めていた在り方も
無意識に違っていたんだろうな。
いいとか、わるいとかではなく。
かわいそうとか、ひいきとかでもなく。
事実として。
全く同じように、なんて
向き合えるはずがないんだな。
そのことを、自覚だけはしていようと
そう思う、夏休みの1日。
8月16日
【あそびをおもう】
MUSEUMに
ちょうどいい日本語が
なかなか見つからない。
博物館という
ちょっと重々しい言葉もある。
美術館とか科学館とか
その中で細分化されたものを
表す言葉はある。
けれどMUSEUMという言葉で知った
ジャンルを区切らず
知的にわくわくするものと出会える感じ。
知らない世界に出会える感じ。
もっともっとと知りたくなる感じ。
誰にでも開かれて堅苦しくない感じ。
そんな感じがうまく伝わる日本語が
なかなか見つからない。
言葉があれば、概念が生まれ
概念があれば、形にできる。
形にできれば、魅力が伝わる。
いい日本語が見つかれば
「わくわくするMUSEUM」が
もっと増えるんじゃないかしら?
いや、実は日本国内にもあちこちに
「わくわくするMUSEUM」は、ある。
それを一言で表す言葉がないだけで。
学問的なジャンルは違っても
わくわくする、という共通項で
あちこちの「わくわくするMUSEUM」を
同じもの、として紹介できれば
知的なわくわくに出会うチャンスが
増えるのかもしれないなぁ。
(写真は文楽人形を研究する小学生男子)
↑
後から研究していたのではなく
人形と会話していたことが判明。
8月18日
【あそびをおもう】
ムカシの子どもは
自由な遊びの中で
体幹とか、運動能力を鍛えたり
社会性を養ったり
問題解決を経験したり・・・して
生きる力を育んだ。
なんてことを、よく耳にします。
その通りだと思います。
思いますが。
この話は、ここで終わっては
いけないと思うのです。
じゃあ、その「自由な遊び」の場を
持つことが難しくなった
今の子どもたちが
どうやったら「自由な遊び」を
取り戻すことができるのか?
安全意識と環境が大きく変わった今
ムカシと同じに戻ろうとするのではなく
今にふさわしいものを
創っていきたいと思うのです。
「自由な遊び」というのは
こどもの領分を侵さない遊び方かな、と
最近考えています。
こどもの領分を侵さず
場を大きく俯瞰できる
そんな存在の大人がいる場。
結局肝となるのは、人、かもしれません。
私は野山を駆け回らなかったけれど
野山で駆け回った話を知っている。
そんな遊び方があったってことを伝えていく
ぎりぎりのチャンス(世代?)なのかもしれない。
8月21日
【あそびをおもう】
おにごっこ、というのは
意味の深い遊びだなぁ、と思う。
敵味方が常に入れ替わる。
「オニ」になったとしても
それは一時的なことで
いいモンか、わるいモンかは、
その時々に変化する。
そうだ、大人になってみると
「正しそうなこと」って
いつも変わっている。
その時、その時の
「今の私にとってこれが正しい」を
暫定的な答えにしながら
少しずつ、考える道を前に進んでいく。
これがいい、とか、これが悪いとか
自分の状況が変われば、変わる。
なんか、そんな在り方に
おにごっこは似ている気がする。
言葉で説明しようとすると
くどくなってしまうんだけれど、
直感的に、気づくことは
案外、深い。
8月24日
【あそびをおもう】
ムスメがキャンプから帰ってきた。
昨年、兄と2人で参加し
それでも夜はさびしくて泣いた。
その経験を経て、2度目のキャンプ。
今年は1人で参加。
荷物全部自分で用意して。
張り切って参加して。
元気な顔で帰ってきた。
今年は泣かなかった?
「泣いたよ。」
来年も行く?
「来年も行くよ。」
泣くのはイヤなこと、というのは
短絡的な考え方で。
こどもはもっと複雑な考えを
あれこれとめぐらしているらしい。
来年も、泣くのかなぁ?
泣くけれど、参加したい。
来年も、参加したい。
こどもの思考は、
大人が思っているより、複雑だ。
8月28日
【あそびをおもう】
美術館へ。
子ども達が美術と出会い、
興味を持つことを
目的にした展示を
親子で楽しむ。
おなかの中で
「私なら、こうするなぁ」
「ここは、ちがう方法がいいなぁ」と
思いながら観るのは
その場を創る疑似体験のようで、楽しい。
「もっとこうしたらいいのに」と
考えられるのは
この場に何か不足があるからではなく
この場を創ってくれる人がいるおかげだと思う。
子どもに「本物」をどう伝えるか。
それを形にした試みが
もっともっと増えたらいいと思う。
そして、
こどもに本物を伝えることの経験値が
このエリア全体、の規模感で
広がっていけばいいなぁ、と思う。
子どもにとって
いいものが増えたらなぁ、と思うけれど。
最初から「いいもの」を目指していたら
いつまでも増えないから
まずは、子どもを意識した場が
増えたらなぁと思うのです。
8月30日
【あそびをおもう】
いい夏休みの宿題考えた!!
「自分の好きなことを徹底的にやる」
それで、何をしたか、
一番いい方法で伝える。
何十冊というマンガの表紙の写真でもいい。
プールに行った時間の記録でもいい。
乗った電車の路線を塗りつぶすのでもいい。
練習したけん玉のワザを披露するのでもいい。
感想とかじゃなくて。
「これが大好き」
「これをやった」
「あー満足」・・・が
伝われば、なんでもいい。
テレビゲームとテレビ視聴は
ナシにした方がいいかもなぁ。
(中毒性が高くて夏休み明けまで
引きずりそうだから。)
(あと、自分が主体になることが
ムズカシイから。)
ムスコから「特に好きなことがない人は
どうしたらいい?」と質問を受ける。
うん、そういう人にとって
「好きなこと」を見つけるきっかけになれば
いいと思うんだよね。
どうでしょう?夏休み。
「とことんやりつくす経験」
夏休みの宿題について
色んな考え方を聴きながら思いついた!
私なら、こんな宿題出したい。