「知識を得る」ってことが、最近、どうも旗色が悪いように見える。
〈知識より知恵が大事〉とか、〈知識を多く持つよりも自分の考えを持つことが大事〉とか、〈検索すれば分かることを覚えておく必要はない〉などと言われ、「知識を得る」ということが、ワルモノのような言われ方をされているなぁ、と感じることがある。
確かに知識の多さを誇るよりも使い方が大切。そりゃそうだ。
ただ、私たちがそんな風に論じる時、1つ忘れていることがあるんじゃないか。
それは、
新しいことを知ることは喜びである
ということ。
好きなことを知ることは 嬉しい
電車の好きな子どもは、電車の名前を覚える。
昆虫の好きな子どもは、昆虫の生態について詳しく解説してくれる。
バレエの好きな子どもは、舌をかみそうなステップの名前をすらすら唱える。
誰かに「覚えなさい」と言われて、覚えたのではないだろう。
彼らは、自分から、嬉々として、自分の中に知識を蓄えるのだ。
喜びだから。
授業で習う=つまらないって訳じゃない
こういう例を挙げると、いやいや、子どもたちが知識を得ることが楽しいのは、それが〈好きなこと〉だからだよ、と言う人もいるかもしれない。年号とか、星の名前とか、プランクトンの種類とか、三角形の面積の計算方法とか・・・、そういう〈好きでもないこと〉の知識を得なくちゃいけない状況は、やっぱり喜びとは思えないよね、って。
そうだろうか。
〈好きなこと〉が最初から好きだったとは限らないんじゃないか。興味のなかったこと、最初は気が進まなかったことも、出会ってみて、少し知ってみたら、意外に面白くて、もっと知りたくなる、という場合もある。
大人自身の「学校で習った時に苦手だった」「つまらなかった」という記憶から「学校で習うことは、難しくてつまらないこと」って思っているかもしれない。でも、学校で習うこと=つまらない、って決めつけなくてもいいと思うのだ。
知識を得ると 世界が今よりも くっきり見える
例えば、理科で学ぶ「太陽と月の動き」を知ることは、それまで漫然と眺めていた月が、なぜ満ち欠けするのか、なぜ季節や時間によって動くのかが分かり、夜空を見上げる面白さが一段深まることになる。
月の満ち欠けの理屈は分からなくても、月の美しさは楽しめるよね、というのは、サッカー観戦の時に、プレイの巧さだけを楽しむ、というのに似ているんじゃないか。もちろん、スーパープレイを見るだけでも充分楽しめる。でも、駆け引きやフォーメーション、選手の得意不得意のような詳しいことを知っていたら、きっと、もっと観戦を楽しめるだろう。ボールを持っていない選手の動きにも注目するし、その選手のバックグラウンドにも興味が湧く。もっともっと知りたいことが増えるに違いない。
知識を得ると、世界が今よりも くっきり見えるんだと思う。だからこそ、知らないことを知ることは喜びで、楽しくて、嬉しくて、やりたくて仕方がないことなんだと、私は思う。
「知識を得る」をワルモノにしない
私たちが論じた方がいいことは、「知識を得る」ことの否定ではないと思う。楽しかったはずの「知識を得る」ことが、苦行になってしまった状況を、どうやったら変えられるのか、ってことじゃないのか。
(「どうして苦行になったのか」という、犯人さがしではなく、「どうやったら知ることの楽しさを取り戻せるのか」ということを、考えたい。)
例えば、こんなことを考えてみた。
・知識を得る方法を文字情報に頼らず、実体験を通す。
・得た知識を使って、何か楽しいことをする。
・得た知識のうち、「こんなすてきなこと、他の誰かにも教えてあげたい!」と思ったことを、相互に伝え合う機会をつくる。
・知識を得ることの早さや多さで序列をつけない。(そもそも人の学びに序列をつけない、と言いたいのだけれど、特に知識を得ることがモノサシになる場合が多い)
・知識を得ることの早さや多さを根拠に、他の要素(賢さとか、リーダーシップとか、人柄とか)まで類推して評価しない。
知識を得る喜びを、もっともっと味わうための実践を重ねることは、自ずと、その知識を生かすこと・・・つまりは、知識を知恵として活用したり、自分の考えを組み立てるための材料にすることに繋がると思う。
知識を得ることと、考えを持つことは、対立関係じゃない。相互に高めあい、そして、自分を豊かにしてくれることに役立つんだと、私はそう考えているし、子どもたちにもそう伝えていきたい。
新しいことを知ることは、嬉しいことだ。
知識を得ることについて、もう少し続きます。