学びは遊びだと思う。
思う、というより、学びは遊びだと信じている。
学びは遊び、というのは、良く遊んだら賢い子になりますよ、とか、こういう遊びをすればこういう能力が伸びますよ、とか、そういう打算的な話ではなくて。
学ぶことへの意欲、というのは、人が生まれながらに持っている本能ではないのか。今までできなかったことができる喜び。知らない世界に手を伸ばす興味。自分の見える景色が広がる興奮。
だから赤ちゃんは首を持ち上げ、寝返りを打ち、お腹で前に進む。新しいものに手を伸ばして舐める。座れば喜び、立ち上がろうとする。
学ぶことは、本質的に楽しい。文字が読めるようになれば、いつもと同じ道が宝探しになる。数を知れば、公園で拾った石に名前がつく。私たちが「学び」と名付けていることは、本当は、どれもどれも楽しい「遊び」で、人がわくわくした気持ちで向かい合うと、すてきに楽しく輝く。
学びを、遊びと引き離したものは何なのか。それは、押し付けと評価ではないのか? 絵本を読みたい、と思えば、誰でも文字を覚えたくなる。3歳くらいでその気持ちを持つ人もいるし、7歳や8歳になってから、そう思う人もいるかもしれない。本人の心からの欲求に合わせたら、文字を覚えることは楽しい。楽しいし嬉しい。でも、全員に同じタイミングで「文字を覚えましょう」ってやってしまえば、それは自分の心を起点とした行動ではない。ましてそこに、いいの悪いの、うまいの下手だの、覚えたの覚えてないのと、評価が入れば、ちっとも面白くない。当然だ。
そして、学びと引き離されてしまった遊びは、ただ面白おかしいもの、として、大事な芯を抜かれてしまったように見える。「遊んでばっかりいないで、勉強しなさい」って言われるようになった。ほんとは、遊びが何よりの学びなのに。
よく遊んだら賢くなる、というのも、学びという1つの領域があって、それは評価の対象で、遊びの副次的な効能として、その評価が高くなるよね、という風に聞こえてしまう。違う、違うんだ。学びは評価されるためのものじゃない。自分の可能性が広がること。だから、自分にとって嬉しいこと。
さあ、どうしようか。
切り離されてしまった学びと遊びを、もう一度つなげたいなぁ、と思っている。こどもたち(もちろん、大人たちも)ひとりひとりが、自分の好きなこと、わくわくすることを、もっと知りたいって思ったり、試してみたり、考えたりすることができたら、自分を高めること、努力すること、時には苦労することも、苦ではない。そういう、自分らしい自分を生きるためには、遊びと不可分な学び、という考え方が、やっぱり必要だ。
遊びの側から、学びに近づいていきたい。夢中になる、魅力的な遊びの中には、学びにつながる芽が沢山たくさんあるよね、ってことを、ひとつひとつ、観えるように形にしていきたい。そんな遊びが経験できる機会を、まずは創っていこう。