自分を認める想いは 他者との比較からはうまれない

ボストン滞在記

エースが集まるスポーツ強豪校。
全員がトップ経験者の進学校。
天才と言われて育った人ばかりの芸術学校。
期待一杯で進んだ新しい環境で、
「自分はすごいと思っていたけれど
自分くらいすごい人は世の中に大勢いるんだ」って気づく。
・・・多くの人が似たような思いを
経験したことがあるかもしれません。

この思い、そして、ここからの葛藤って大事だなぁと
改めて考えています。


100人を1本の線の上に並べれば
1番端にいる1人と
「1番に及ばない」99人という風に見えてしまう。
けれど、100人は100色の違う色で
そこには優劣や是非があるわけではなく
それぞれに魅力的な100色である
・・・なんてことは
もう何年も何十年も前から言われていて
最早、言い古されているようにも感じます。

でも、その割に、「100色の違う色」という認識が
定着しないのはなんでだろう。
もう何十年も前から変わらず
誰かと比べてより優れていることに
価値が置かれているのはなんでだろう。

ちょっと俯瞰してみれば
「100色の違う色」の織り成す様は美しく
どの色も重要なパートを担っていると分かる。
けれど、一人一人の立場に立てば
「自分は自分色だからすばらしい」と
思うことは、なかなか難しい。

「あの人の方が鮮やかだ」
「あの人の方が色が濃い」
「あの人の方が透明度が高い」

一人一人違うからこそ、すばらしい、の
すばらしさには、何の基準もないから。
自分の知っている基準に照らし合わせて
「なんだか、あの人の方がいい」
・・・そう感じているのかもしれない。


そんな風に、自分色がすばらしいと思えない人が
自分を認めるために必要なことは
他者がほめたり、認めたりすることではない。
他者がほめて良さを見出すことは
100色の色を全てを評価するために
100の異なるものさしを用意して
100の違う基準の「1番」を作ることでしかない。

心から自分を認める想いは
他者との比較からは生まれないのだと思う。
誰かと比べたり
何かと比べたりするのではなく
自分だから良いのだ、と。


先に述べたように
「自分だから良い」には何の基準もないから
何の拠りどころもない。
拠りどころは自分で作るしかない。

そう考えると、頼りになるのは
「自分らしさ」しか思いつかない。
「自分らしさ」をつくるものは何か。
思いをかけてきたもの。
時間をかけてきたもの。
こだわっているもの。
心地よく思えるもの。
没頭できるもの。

結局、自分が大事にしてきたもの、
なんだと思う。


子どもたちひとりひとりが
「自分の好きなもの」を
見つけられたらいいな。
そのための入り口を提供したいな、と
ずっと思ってきたのは

確固たる「自分の好きなもの」を持つことが
「自分は自分だからいいんだ」と思えるために
本当に必要だと思うから。


冒頭に書いた
「自分はすごいと思っていたけれど
自分くらいすごい人は世の中に大勢いるんだ」って気づく。
その経験は本当に必要だと思っています。

そここそが
人と比べて優れている自分、ではなく
「本当の自分らしさ」を見つける
スタート地点なのでしょう。