子どもの抱く違和感に向き合う覚悟ができているだろうか

新しい発明は、困りごととか、不自由とか、こうだったらいいのに、という想いがスタートになることが多いですよね。
シンプルな欲求ほど、大きな発明につながるように見えます。
例えば、以下のような望みが、どんな発明を生んだのかは言及するまでもありません。
「もっと早く移動できたらいいのに」
「遠くにいる人と話ができたらいいのに」
「鳥のように空が飛べたらいいのに」

そんな望みに対して、次のように考えを切り替えることだってできたと思うのです。
「ゆっくり移動し、周りの景色とか、季節とか、天候の変化とかを感じるところに、移動の醍醐味があると思うよ。」
「大事な人と話をするために、わざわざ足を運び、そこで交わされる会話の方が、ずっと心に残ると思わない?それに、手紙だってあるし。自分の書いた手紙が相手の元に届き、返事を待つ。返事が来た時の喜びや、何ども読み返す楽しみだって味わえるじゃないか。」
「人はどんなに頑張っても、空を飛ぶことはできないよ。そういう身体の作りにはなっていないからね。努力してもできないことを望むよりも、空を飛べなくても得られる幸せを探した方がいいんじゃないかな?」

こんな風に、今在る状態を受け入れ、その中に愉しみを見つけようとする考え方って、すてきな気がしませんか?

でも、過去の発明家たちは、そうはしませんでした。今在る状態ではない、「もっと違う何か」を目指し、大きな成果を出し、それが、今に至る私たちの暮らしをも変えています。

世の中にかつてない新しいものを生み出すことのできる人って、今在る環境に自分を合わせようと不都合に目をつぶるのではなく、小さな違和感を無視しないんじゃないかな、という気がします。小さな違和感というのは、例えば、同じ作業の繰り返しで大変、とか、無理な姿勢で身体に堪える、とか、肌触りが良くない、とか、音が苦痛、とか。

その「違和感を無視しない感性」は、時に、わがままとか、細かいことばっかり気にするとか、我慢できない、とか、周りの人から否定的に受け止められることもあるかもしれません。でも、誰かの「違和感」が、世界を変えるような大きな発明と変化に繋がる場合もあると思うのです。

今在る環境に納得することと、自分の感じた違和感を表現すること、というのは二者択一ではなく、バランスです。ただ、社会が変わるスピードが早くなっている今、そのバランスが変わりつつあるのではないでしょうか。
新しいものを生み出せる人であることへの期待は、ますます大きくなり、違和感を抱く感性が必要になっていると思うのです。大人も、子どもも。

そう考えれば、子どもに関わる大人たちは、子どもの表現する違和感に、ちゃんと向き合うことが求められている気がします。新しいものを生み出せる人に育ってもらいたい、と期待するならば、今の環境に納得できないよ、という子どもの想いをちゃんと受け止め、否定しない必要があると思うのです。

私に、そういう子どもの想いに向き合う覚悟はできているだろうか、まずは今在る状況に合わせようよと説得してはいないだろうかと、ふと自問するのでした。みなさんは、どうですか?