〈こだわり〉は持ちすぎない方が生きやすい

夕食後、洗い終えた食器を拭き、食器棚に片づけることは、今は息子が担当しています。提案したのは私ではありません。私は、ちゃんと拭けていなかったらいやだな、とか、食器のしまい方にはこだわりがあるからやってもらいうのはいやだな、とか、気が進まない理由を、あれこれと自分の中で思いついていたのですが、夫(洗い物好き)が提案し、息子も応えてくれました。今は、食後に別のことができるようになって、とても助かっています。
そう言えば、「食器のしまい方のこだわり」って何だっただろう?忘れてしまいました。(忘れる程度のことだったのでしょう。)

こだわりがある、って、従来いい意味で使われる場面が多かったと感じます。職人が材料や工程に対して妥協しない姿勢とか、良いモノだけに囲まれて暮らす人の、モノを吟味する審美眼とか。
細部にまで気を抜かず、自分で価値があると思うことや、行動を貫こうとする姿に対して使われることが多かったのではないでしょうか。

自分が心地よくあるための「マイルール」として、「こだわり」を持つのはいいのだけれど、この「こだわり」は他者に向けると、ちょっと面倒になります。先の話で言えば、「食器のしまい方のこだわり」は、私が勝手にこだわって、勝手に貫いていればいい。でも、家族の片づけ方にまで、私のこだわりを押し付けるのは、最早、私自身のわがままです。こだわることをやめた方が手伝ってもらえることが増え、ラクになりました。

さて、話は変わります。
母になってからの働き方で、何が良かったか、と聞かれると、私はいつも、自分の仕事を明文化したこと、と答えています。

母になる前は、自分の得意な仕事は、全部自分で担ってきました。夜遅くなっても、土日祝日でも、遠方でも、自分が担当すれば、それで良かったのです。大変だなぁ、という気持ちよりも、自分がやることでうまくいく、という、ある種の自尊心が満たされる喜びの方が大きかったような気がします。

でも、母になれば、そういう時間の使い方ができなくなりました。子どもの生活を整えることを最優先にしたいと希望し、それに合わせた働き方になりました。

だから、休みの日や遠方で、その場にいる人にしか担えない仕事は担当できなくなりました。他の人たちにその役割をお願いするために、それまでは自分の経験と感覚で捌いてきた業務を、文書にすることが必要になりました。自分の仕事内容を明文化し、また、その業務を快く担当してくれる同僚に恵まれたおかげで、関わっていた仕事はちゃんと継続されました。有難いことです。

ちゃんと継続された、とは言っても、当然ながら、自分が担っていた時と全く同じという訳ではありません。業務を明文化した、とはいえ、言葉にならない部分もあります。それは、私にとって、その仕事を自分が担っているからこそ実現できる「こだわり」だったと思います。

でも、自分がその場で担えない以上、その「こだわり」は手放した方がいい、と決めました。・・・いや、最初からスムーズに手放せた訳ではないと思います。正直なことを言えば、自分がいなくても業務が進むことに、自尊心が揺らぐ思いを感じたのは確かです。その不安を「質を保つ必要がある」なんて言葉に言い換えて、自分流に修正したくなった日もあったと思います。

でも、その「こだわり」に何の意味があるのでしょう。担い手が変われば、その人の個性が出るのは、当然のこと。質を保った引継ぎができていれば、そこから先は、むしろ個々の魅力が発揮できることが望ましいはずです。それを、自分の「こだわり」に適わないから、と修正したり教育したりすることは、自己満足に過ぎません。

元の業務が自分にとって大切なものだからこそ、その「大切な業務」を、次の誰かが担ってくれて、ちゃんと継続されるように、自分のこだわりは、手放して良かったのだと思います。

仕事も、家事も、自分の担うことに「こだわり」を持ち、自分だからこそ、と言える取り組み方ができることは素晴らしいことです。でも、その「こだわり」は、自分が〈頑張っている実感〉を得たいから、と割り切った方がいい。(自分のためにすらならない時・・・例えば、自分のこだわりで、自分自身が苦しくなってしまうような時は、躊躇なく手放した方がいいと思います。)

そして、他者には向けない。他者が、自分のこだわりに適わないことには、決してイライラしない方がいいと思います。
「こだわり」は、きっと、持ちすぎない方が、生きやすい。
気負いすぎず、それなりに気楽に生きていきたいな、と思います。