『あそびのじかん』出版して 5年がたって 改めて

あそびのじかん』という本を出版したのは2016年7月25日。
この本は、大人たちに〈目的はなくてもわくわくする「あそび」の魅力を思い出そうよ〉って話しかけるような本です。

本を書く、というと、何となく、書き手が読み手に対して何かを教えたり伝えたりするような関係性が思い浮かぶかもしれません。でも私としては、先述のように「話しかける」という言葉が一番しっくりします。子どもが遊びに夢中になる様子って、本当にすてきだよね、と同じ目線で楽しみたい、というのが、一番の想いです。
まえがきでも

この本で紹介するあそびの姿をおもしろがっていただきたい

と書きました。

だから、子どもたちの遊びの風景(第2章です)を読みながら、「あー、うちの子もこんな風に遊んでいたなぁ」「あの時、夢中で遊んでいたけれど、何を考えていたのかなぁ」「そう言えば自分も、子どもの頃こんなふうに考えていたかもなぁ」などと、ご自身の経験した「あそびの風景」に想いを馳せるきっかけになれば嬉しいです。

そして、遊びの風景をおもしろがるために、私の考える「あそび」についての視点も共有しました。それは、何かの成果や学びを期待するのではなく、子どもが夢中になって取り組める「あそび」が大切だよね、ということです。大人たちには、ちょっと耳が痛いかもしれません。

こどもたちの遊びとかかわっていると、こどもたちは自由な遊びを通して、生きていくために必要なことを得ていることに気づきます。けれど、こどもたちにとって、「何かを学ぶ」ことは目的ではなく、自由に楽しく遊ぶことが目的。学びや成長は、後からついてくる結果に過ぎないのです。
(中略)
そして今、遊びに対して、きちんと・正しく・成果を上げよう、とする親たちの意識は、本来の想いとは裏腹に、こどもがのびのび遊び、学ぶチャンスを減らすかもしれない、と懸念しています。(まえがきより)

私も1人の母親として、耳が痛い気持ちは分かります。我が子のために良かれと思ってやっていたことに対して「子どもがのびのび遊ぶチャンスを減らすかもしれない」って言われたら、傷つくかもしれない。

でも同時に、「我が子のために良かれと思ってやっていること」の多くは、外的な情報によってもたらされていることも、経験しています。子どもの○○を伸ばすために、○○を鍛えるために、賢くするために、発達を促すために・・・という枕詞のつく情報は、親たちのまわりに溢れています。

その情報を、必死で追いかけなくてもいいよ、と言いたいのです。我が子を賢く育てるための遊び方を求めてプレッシャーを感じるのではなく、目の前の子どもが楽しんでいることを大事にしようよ、と言いたいのです。この本でも、今も。

子どもとの向き合い方に、たった1つの正解はありません。だって、子どもは1人1人違うのですもの。その子にとって、しっくりくるかどうか、というだけのことです。たった1つの正解はない代わりに、正解はいくつもある、と言うこともできます。

巷にあふれる情報を観るのではなく、我が子を観ることの方が、ずっとずっと必要なことです。我が子が楽しんでいたら、それが正解です。我が子が繰り返し繰り返し遊んでいたら、それが夢中になれることです。
それでいいんだよ、だって、〈あそびって、目的がなくてもわくわくすること〉だからね・・・ってお話して、お父さん お母さんたちが、子どもと向き合う時の気持ちが少しでも軽くなってもらいたいのです。そうすれば、きっと、親子の楽しい遊び時間が実現できると信じています。

あそびのじかん表紙_小

ところで、『あそびのじかん』を読んだ人から「この本は、あそびの本なのに、あそび心が足りないね」と言われたことがあります。

まぁ、なんてこと! 

その人曰く「あそびのじかん」って言いながら、なんだか整然として、教科書みたい、という印象を受けたそうです。

「あそびの専門家」としては、書いた本に「あそび心がない」というのは由々しき事態ですが、実は思い当たる節もあります。
それは、私自身が、直感で遊ぶことに対して苦手意識を持っているということです。苦手意識を持っているからこそ、言語化できるんじゃないかと思うのです。

天才的に何かが得意な人よりも、最初はできなかったけれど試行錯誤してできるようになった人の方が、教え方が上手、というのは、誰しも経験があると思います。スポーツでも、勉強でも、音楽でも・・・。

たぶん、私にとっての「あそび」は、それと同じなのです。
直感で遊ぶことは苦手でした。記憶にある限り、子どもの頃から、苦手です。だからこそ、子どもたちと長く関わる中で、どうやったら喜んでもらえるのか、どんな時に楽しそうなのか、この楽しさが何につながるのだろうかと、言葉にして考えることができたのだと思います。

そして、本能的に遊ぶことが得意で、大人になってもあそび心に溢れている人は、『あそびのじかん』なんてタイトルの本は必要としていないんじゃないかな、と思うのです。手に取ってくれるのは、きっと、私と同じように、直感的に遊ぶことに苦手意識があって、子どもとどんな風に遊んでいいのか戸惑ってしまうような人。だから、これでいいんです。



あそびのじかんを書く過程で、あそびについて思い出して、調べて、整理して、言葉にして、ずっとずっと「あそび」と向き合ってきました。その過程を経たからこそ、その先、「あそび」を自分の肩書にして、「あそびの専門家」を名乗れるようになったのだと思います。出版社の英治出版さんには大変お世話になりました。(今もお世話になり続けていますが。)

出版してすぐには、こんな風に言葉にしています。その時から比べて、今はもう少し、私が「あそび」をテーマに本を書いたり、大人たちにメッセージを伝えることの意味を、言葉にできるようになってきたようにも思います。

私にとっては、自分の全てをこめたかけがえのない1冊だなぁ、と何年も何年も経っても、ずっと変わらずに大切にしてます。

何年も何年も経っても、1人でも読んでくださる方がいたら嬉しいし、あそび、というものに想いを馳せて、そしてちょっぴり笑顔になったら、もう本当に幸せです。