【小さな遊び】子どもの遊びには大人が道筋をつけない方がいい

【小さな遊び】はFacebookページ[あそびのじかん]
日々掲載している遊びへの視点を、まとめてお伝えする
〈あそびコラム〉です。


結果ではなくて過程が遊びなんだ

2019年12月3日
粘土と、どんぐりと、木の枝を出して
遊んでいました。

ずっと手を動かしていた子は
粘土の上にどんぐりを
どっさり載せると、
また全部取ってしまい
粘土をこねて
どんぐりを並べたり
お皿の中でどんぐりを混ぜたり
ひと時も、同じ形に留まることなく
遊んでいました。
最後は、お気に入りのカバンに入れて
おでかけごっこに出かけました。

机の上に残ったのは
入れ残した粘土がちょびっとだけ。

大人のことばでは、
造形あそび、というイメージで
物を用意していたのだけれど
作品が残ることは
そんなに大事じゃないんだな、って
改めて気づいたのでした。

いやぁ、よく遊んでたなぁ。


子どもが生み出す楽しさを驚ける大人でいたい

2019年12月4日
子どもが起こすちょっとした偶然に
「わぁ!」って
大げさに驚くと
すごく喜ぶのだよね。

「あぁ、この大人は
これを面白がっているから
もっと見せてあげよう」と
思ってくれるのか
それはそれは得意気に
繰り返し見せてくれるのだよね。

葉っぱがひらひら落ちるとか。
水たまりの水がはねるとか。
石がコロコロ転がっていくとか。
大人だけでいたら
たぶん 気づかなかった驚きを
教えてくれるのだよね。

本当に小さなやりとりなんだけれど
その時間が、好きだ。

あぁっ!って
びっくりしてみせた時
小さい人たちは
それはそれは得意そうで。

あの人たちは、
私と遊んでくれているんだろうな。


作業の準備をやめて、モノの準備をしよう

2019年12月6日
造形あそびの準備が
「あータイヘン」って思ってた頃は
作りたいものの形に人数分切り抜いたり
両面テープを貼っておいたり
教えるための見本を作ったり
・・・用意することが沢山あった。
時間をかけて、一生懸命用意すれば、
できあがるものも、
まぁ、似たような感じだった。
模様や飾り方や色や・・・
変えられるところを考えたけれど
基本的なものは同じ。

けれど、「いいものを
形に残さなきゃいけない」から
自由になれば
必要なのは
作業の準備ではなく
モノの準備になった。

モノを準備しておけば
子どもたちが、作る。
たくさん作る人もいていい。
作っていないで観察する人もいていい。
そこから出来上がる何かの方が
ずっと好きだな、って思った。

表現、ということを
もっと知りたい。
子どもの姿を観ていて
わくわくするから。

子どもの姿を観て
こんなものが好きかな、って
用意して
それでも、想像もしなかったような
楽しみ方を思いつく子どもに
びっくりする。
そのやりとりを
楽しめる大人になりたい。


何かに出会う最初は、知識よりも感覚を大事にしたい

2019年12月11日
色、をテーマにした絵本を
選んでいました。

色々なアプローチがあるのですが。

「この色が赤ですよー。
 たとえば、りんご。」
「この色は黄色ですよ。
 バナナの色ですねー」
ってものが多いんだな、って気づく。

その中でも、「色」そのものを
味わうようなアプローチもあって。
それは、
色と物を1対1で対応させていなかったり
何か意味のある形を作らなかったり。

これからの子どもたちが出会っていくのは
後者なのかもしれない、と思う。

知っている、という知識ではなく
色の美しさとか、面白さとか
そういう風に感じることを
充分に、充分に大事にしていきたい。

大人は、何かを教えたくなるけれど
誰かが決めた「知識」に出合うことより
自分の「感じ方」に出合うことを
もっともっと大事にしたいなぁと
思うのです。


絵本は子どもの世界の入り口だから

2019年12月12日
電車好きさんは
電車図鑑と『せんろはつづく』を
同じように愛するし
動物好きさんは
物語のように動物図鑑を読む。
『カラスのパンやさん』を読めば
本当のパンの作り方の本が知りたくなって
お料理の本で調べようとする。

だから
『水の生き物図鑑』のとなりに
『おたまじゃくしの101ちゃん』があり
そのとなりに
『ザリガニの育て方』があるような
そんな絵本棚にしたいなぁ、って
思うんだよね。

絵本は、子どもの興味の入り口だし
新しい世界の入り口だ。
そういう気持ちで
子どもの絵本環境を
大事にしたいなぁって
思ってるんだ。


整えすぎないことの面白さ

2019年12月13日
年齢があがると
「いいもの」を
作りたくなってくる。
それまでは
創る過程の動作を楽しんだり、
ただ自分が創った、ってことに
喜びを感じていた人たちが
できあがりを 気にするようになる。

それは自然な変化だと思うんだ。

でも。
その「いいもの」が
どこかで見たようなものだったり、
ただ整ってる、ってことだったり、
何かお手本に忠実なことだったり、
そんなことだったら、
もったいないなあ。

なんてことを考えながら
わざとバラバラな形に
フェルトを切っている。

私は(多くの大人は?)
一生懸命考えないと
ランダムなものを作れない。
でも最近は、
その揃っていない美しさが好きで
一生懸命に、わざと、
不揃いを作ってみる。


「みんな仲良く」だけが正義ではない

2019年12月18日
2人の子どもが、
何やら楽しそうにしている。
その楽しそうな雰囲気を察して
「いーれーて。」と
もう1人がやってくる。

すると。
「だーめ」
って答える、ということが、
子どもの世界では、時折起こるらしい。

とはいえ、イジワルしてる訳じゃない。
今の「楽しいこと」と
そこに関わっている自分たちとの
バランスが、ちょうど絶妙で
そのままを続けたいんだと思う。

「いーれーて」って言う人
「だーめ」って言う人
見ていると、固定していない。
ちょっとしたタイミングで
どちらの立場も経験してたりする。

さて。
大人としては
「みんなで仲良く遊ぼうよ」
「入れてあげたら、どう?」
って言うのかな、と思う。

お友達と仲良く遊ぶことを
教えなくてはいけない・・・と。

けどさ。
お友達と仲良く遊ぶことは、
「教える」ことじゃない。
誰かと一緒に遊ぶと、
1人とは違った楽しみ方があるな、って
子ども自身が「感じる」こと。

子ども自身が、
誰かと一緒に遊ぶことの楽しさを
感じている真っ最中なのに
その状況は、大人の理屈で壊して
「みんなと一緒に遊ぶことが大事」と
無理にもう1人を加えても
そこに、仲間意識は
芽生えにくいんじゃないか。

もちろん、いつも同じ子どもが
仲間に入れてもらえない状況なら
また配慮するべきことは
別にあるだろうけれど。

「そうか、キミは
 仲間に入りたいんだね」
「そうか、キミたちは、
 今は2人がいいんだね」と
両方を肯定しつつ、
しばらく見ている。

突然、「いーいーよ」って
返事が変わることもある。
私には分からないけれど
子どもたちにとって、
良いタイミングがあるんだろう。
仲間に入りたかった1人が
他の遊びを見つけることもあるし、
ふっと別の遊びが始まって
何事もなかったように
3人ともそこに加わる、なんてこともある。

どう関わることが正しいか、なんて
たった1つの答えはないから。
大人の持っている「正しそうな答え」を
正義だと思わないように、
気をつけたいと、思ってる。

この状況には、この対応
・・・という答えを決めすぎてしまうと
1人1人の姿ではなく
類型化した型を見る目になってしまいそうで。

答えなんてない、って思うことで
その時々の一人ひとりに
いつも新鮮に関われる気がする。


自然体の関わりが暖かい

2019年12月20日
ちょっとしたことで
泣いている子がいると
「いっしょに 
 キョウリュウごっこしようか?」
って、声をかける子がいたり。
変な顔をして笑わせる子がいたり。

子どもの中にある仲間への想いは
何気ないところで、
ふっと、あったかい。

けど、このあたたかさは
「子どもは天使だから」
っていうのとは、違うと思う。
それから、
「みんな仲良く」
「お友達にはやさしく」
って スローガンからも 生まれない。

その子自身に
人から大事にされてきた
あったかさの積み重ねがあって。
それで、仲間のことを
大事に思うことができて。
自分に何ができるだろうかと
思い巡らし、
それを行動に移せる。

優しいことをしたつもりでなく、
自分が、こうしたらいい、と
考えたことをしたんだろうな。

優しい、とか、仲良く、って
概念だからさ。
優しくしようね、って
言葉だけで言うよりも
他者を大事に思う行動の1つ1つに
気づける人でいたいなあ。

いいなあ、って思う
子どもの姿は
大人が必要以上に
手出しをしない時に
ふっと 生まれていて。

きっと彼らは
自分が大事に思うものに対して
どんな風に振る舞えばいいかと
繊細に繊細に
思い巡らせているのだろうな。


自分そのままの姿が「いい子」なんだと思う

2019年12月24日
「あたし、ろうかは
はしらないことにしたの。
サンタさん きてくれるように。」
ちょっと おしゃまな
女の子が言った。

そうか。
サンタさんは「いい子」のところに
来るんだったね。

でも、キミは
気付いていないかもしれないけど
いい子って
廊下を走らない子とか
早寝早起きの子とか
好き嫌いしない子とか
そういうことじゃないんだ。

どんな子も
今、ここにいる
自分のそのままの姿が
いい子なんだと、
私は思う。

長いこと、サンタさんの手伝いを
仕事にしてきて、
分かったことは、
サンタというのは
誰かを大事に想う気持ちが
形になったものなんだ、
ということで。

誰かを大事に想う気持ちに
条件なんてない。
廊下を走らないアナタだから
大事なのではない。
アナタが アナタとして
ここにいる(いると感じられる)
ただ そのことを
大事に想うのだろう。

廊下は走らないことにした、
と言う女の子には
「サンタさんくるのたのしみだね」
とだけ、返事をした。

彼女のサンタは、
そういうおしゃまなところも
ぜーんぶ含めて
彼女のことを
大事に思っているんだろうなぁ。

サンタの手伝いの仕事に
長く関わってきました。

会ったことのない子に
何を渡せば喜んでもらえるかと
思いめぐらせたこともあった。
クリスマスの日の特別にと
劇を届けたこともあった。
サンタのために
いくつもいくつも
ラッピングをした日もあった。

誰かのことを想う時間は
いつも幸せだった。

今年も世界中のサンタさんが
幸せでありますように。


遊びのための「適度な裏方」でありたい

2019年12月27日
高校生の時。
夏の暑い公園で
近所の子どもたちと遊んでいた。
目玉は横幅が2メートルくらいある
ジャンボ紙芝居。
紙芝居が始まる前に、何気なく
教えてもらったばかりの
手遊びをやった。
その時に、じっとこちらを観ていた
子どもの姿が、うれしくて。

あぁ、私、子どもが、こんな風に
じっと興味を示してくれるような
そんなワザを、たくさん
たくさん知りたい、と思った。

そこから、色々なワザを知り
手遊びもたくさん覚えた。
人形劇もやった。
大勢の前で絵本も読んだ。
子どもたちの注意を引き続けられる
小ネタも仕入れた。

でも、最近になって
それらは、やっぱり、
小ネタに過ぎないのかもしれない、と
思うようになってきた。

通る声を出して
テンポの良い絵本を読み、
どんどん新しいモノを出せば
子どもたちはこちらに
関心を示してくれるけれど。

静かな声で読む絵本を静かに聴いたり、
自分ひとりでページをめくったり
1つのものを、時間をかけて触ったり、
初めてのものを、じーっと観たり
・・・お膳立てしすぎないところから
子どもが自分で見つけた興味が
すてきだなぁ、って思うようになった。

大人が、前に出すぎないで
こっそりと用意したものに
子どもが手を伸ばし
興味を示して
じっくりじっくり楽しむ姿が、好きだ。
大好き。

そうしたら、
子どもたちの姿に
驚いたり、感嘆したり、
わくわくすることが
増えたように感じる。

まだまだ引き続き、「適度な裏方」の
適度具合を、探っていきたい。

子どもの興味を惹こう、とするのも
子どもを大人の考えで
何とかしようとすることの
延長上にあるのかもしれない。

子ども自身が、楽しむチカラや
新しいものへの興味や
世界を拡げるチカラを
もっと信じていいんだと思う。