「大きくなったら何になりたい?」って聞くの、やめていいんじゃない?

子どもに「大きくなったら何になりたい?」って聞くのを、そろそろやめていいんじゃないの?って考えています。

今の子どもたちが大人になる頃には、大多数の子どもが今はこの世にない仕事に就く、と言われて久しいです。ということは、今この世にある仕事の中から「大きくなったら何になりたい?」に答えても、大人になった時には「この世にはない仕事」になっているかもしれません。

そして、今の子どもたちにとって「大人になってどんな仕事に携わっているか」の答えは、1つではない場合も増えています。「社会に出て仕事に就く」ことが結論ではなくなりました。そこから、別の新しい仕事にチャレンジしたり、新しい何かを学び直したりと、まだまだドラマが続きます。そう思うと、今の子どもたちにとって、「大きくなったら何になりたい?」という問いに1つの答えを出すことには、あまり現実とのつながりがないように思います。

もう1つ、ずっと気になっていることがあります。それは、質問をした大人たちの多くが、子どもの語る言葉を「どうせ実現しないけどね」って思っていることです。(だから、時々、小学校の卒業文集に書いたことが現実になった有名人がいたりすると、スゴイスゴイとほめそやすのです。珍しくて特別なケースだから。)スポーツ選手や、アイドルや、ノーベル賞受賞者、なんて夢は、きっと実現しないだろうなぁって思いながら、「子どもらしくて夢があっていいわね」って、ただにこにこしている。それって、ずるいような気がしませんか?

もちろん、大人が何も問わなくても、自分から「大人になったら、こんなお仕事する人になりたいんだー」って、どんどん話してくれるのなら良いのです。その子にとっては、大人になった時の自分を思い巡らすこと、それ自体が楽しくてわくわくすることなのだと思います。

私が、やめた方がいいと思うのは、卒園だから卒業だから10歳だからカリキュラムにあるから・・・と、一斉に問う「大きくなったら何になりたい?」です。

だいたい、その質問に、どんな意味があるのでしょう?
もし「自分の将来を考えること」が目的ならば、「何になりたい?」と質問するだけでは、関わりが足りないと思うのです。
なぜスポーツ選手なのか、なぜアイドルなのか、なぜ科学者なのか、なぜケーキ屋さんなのか、どうしてその仕事に就きたいと思うのか、誰に喜んでもらいたいのだろうか、自分はどんな満足を得たいのか、どんな風に社会にに役に立ちたいのか・・・そういうところまで、深く深く言葉にして、大きくなった時の仕事を考えることが、「自分の将来を考えること」として意味を持つと思うのです。

「大きくなったら何になりたいか?」を、職業だけではなく、「どんな満足を得たいのか」「どんな風に社会に役に立ちたいのか」という普遍的な想いにまで落とし込めたら、たとえ、その時に思い浮かんだ職業が、大人になった時には存在しなくても困らない。同じ想いで取り組める仕事を見つければいいのです。大事なのは、〈何になって働くか〉ではなく、〈どのように働くか〉。

子どもたちが未来に思いを馳せられるように寄り添うことは、人の育ちに関わる上で、とても魅力的で、意義を感じる関わりだと思います。でも、それは人が育とうとする原動力に関わる部分だけに、意義も大きいけれど責任も大きい。少なくとも「大きくなったら何になりたい」という安直な質問1つだけでは、到底届かないよね、と言いたいのです。