本当に大切なのは「多様性」なのか?

なぜ「多様性」が大事なんだろう?

そんなことを考えたのは、「多様性のある集団は生産性が高く、同質性の高い集団は居心地が良い」という文章を目にしたからだ。

気になって検索してみると、〈多様性のある集団〉のメリットを指摘している文章がいくつか目に留まった。「生産性が高い」だけではなく、「集団的知性が高い」「想定外の状況への対応力が高い」などと語られ、だから、多様性が大事だよね、と締めくくられている。

なんだか、もやもやした。

「同質性が高い方が居心地がいいけど、集団を強くするために、違う属性を持つ人たちも仲間にいれてあげましょう」と、打算的に、上から目線で〈許可している〉ような印象を受けたのだ。

自分たちの集団が強くなるために、異なる属性を持つ人たちに仲間に入ってもらったとして、そんな風に実現された集団は、多様性のある集団とは呼べないんじゃないか。

もちろん多様性は大切だ。でも、同質性が高い集団は居心地がいい、という感情から眼を背けていては、きれいごとで終わってしまいそうな気がしてきた。

多様性の実現とは?

多様性と言うことを論じる時、多くの人は、同質性を持った多数派(マジョリティ)がいて、その同質性の要素と異なる何かを持つ少数派(マイノリティ)がいる、という構図を思い浮かべているかと思う。

そして、社会の仕組みが多数派の側に合うようにできているために、少数派の人たちにとっては生きづらいことが多いから、その格差をなくし、異なる属性を持つ人たちが混ざり合う社会にしていくのが多様性の実現だよね、という風に理解しているんじゃないか。

何が多数派なのかは状況によって変わる

ところで、多数派、と言っているけれど、自分が多数派に含まれるのかどうかは、当然ながら置かれている環境で変わる。

例えば、私は日本で生まれ育ち、日本語話者で、髪の色も目の色も黒っぽい。だから、日本で暮らしている時は、多数派という立ち位置になる場面が多い。
でもボストンで暮らしていた時は、少数派になる場面が多かったと思う。

私、という存在は変わらないのに。

だから多数派に所属したからって、何かが優れている訳ではない。多いもの勝ちジャンケンみたいなもの。

いつも少数派になってしまう人もいる

とはいっても、状況が変わっても変わっても、いつも人数の少ない側になってしまう、という属性を持つ人もいる。(たぶん、障害者と呼ばれる方たちは、ずっとそういう思いをしているのだと思う。)

だから、多数派は状況によって変わるから、誰だって多数派にも少数派にもなるものさ、と、簡単に断じない、ということは意識したい。

状況が変わっても、自分が置かれている立場が変わらずに、ずっと苦しい気持ちを味わっている人もいるかもしれない。

少数派だった時の方が自分と向き合えた

ちょっと話が逸れるかもしれないが、人生の中で、自分が「少数派(マイノリティ)」に所属している状況も何度かあった。

その真っただ中にいる時は、辛かったり、悩んだりもした。でも、思い返してみれば、自分とはナニモノかということを深く洞察したのは、いつも、少数派にいる時だった。

人は他者との比較の中で、自分らしさを見つけやすいのだとしたら、「みんなと同じ」に所属していない時というのは、自分と向き合うチャンスかもしれない、とも思う。今困っていないから、そう言えるのかもしれないけれど。

「みんなと同じ」を求めるのは悪いことなの?

同質性の社会よりも多様性の社会の方が大事だよね、とか、そもそも日本人は周りに同調しすぎるよね、みたいなことを言われるようになり、「みんなと同じ」を求めるのは、憚られる風潮もあるけれど、本当に悪いことなんだろうか。

グループで課題に取り組むようなワークショップを進行する時、私は、アイスブレイクとして「共通点探し」というゲームを行うことが多い。

3~4人ぐらいのグループの中で、グループのメンバー全員に共通する「何か」を、できるだけ沢山探す、というゲームだ。

見つけた共通点は「猫が好き」「好きな食べ物は最後に食べる」「お菓子のゴミを結んでしまう」・・・などなど、他愛もないものばかりだが、メンバー同士の距離がぐっと近くなる。

共通する「何か」があると、共感が生まれて、そこが相手と繋がる接点になりやすい。
実際、日常生活でも、出身地が同じ、同い年、共通の知り合いがいる、相手の住んでいる土地に行ったことがある・・・というちょっとした共通点があるだけで、ぐっと相手のことを近しく思う気持は、多くの人が味わったことがあるだろう。

大事なのは 何を共通点にするか

共通する「何か」が相手と繋がるきっかけになるなら、自分にとって重要な意味を持つ共通点があれば、仲間意識はぐっと高まるのではないだろうか。

例えば、国籍や肌の色や性別や話す言語が、それぞれ異なるメンバーが集う楽団があったとして。でも、実現したい音楽の方向性が同じだったら、彼らにとっては、自分たちの相互の違いは重要ではなくなるんじゃないかな。むしろ、目指すべき目標が同じ、居心地の良い集団になるような気がする。

音楽だけじゃない。スポーツだって、企業だって、生活コミュニティだって、同じこと。

そもそも人は1人1人違う。違う私と、違うあなたが、同じ方向を目指し、それによって仲間になれるのって、なんか、いいな。

持って生まれた属性に「みんな同じ」を見出すのではなく、個々人が、何を好きなのか、何を大事にしているのか、何を実現したいのか・・・という想いの部分に共通点を見出すことは、決して悪いことじゃないと、私は強く強く思う。

結果として多様性の高い集団

最初の「もやもや」に戻って考えてみる。
どんな組織にも自分たちが集団をつくる目的がある。その目的に対して、方向性とか実現したい形が近しい人が集まっている集団が「同質的な集団」なんだと思う。もちろん、居心地がいい。

でも同質性を求めているのは、目的への方向性だけだから、一見した時の属性は個々に違うだろうし、アプローチも、視点も、得意なことも違うかもしれない。結果として、年齢、性別、国籍、肌の色、心や身体の特性、話す言葉・・・が異なる人たちが、同じ目的意識を共有できたら、それこそが、「結果として多様性の高い集団」になるんじゃないのかな。

本当に大切なのは「多様性」ではなく、お互いの目指したいことを共有した結果として、多様な属性を持つ人たちが、当たり前のように仲間になっている状態だと、私は思いたい。

多様性を尊重している訳じゃない。
1人1人違うよね、という大前提を持って、1人1人を尊重しているんだよね。