【小さな遊び】遊びのきっかけを見逃したくない

【小さな遊び】はFacebookページ[あそびのじかん]
日々掲載している遊びへの視点を、まとめてお伝えする
〈あそびコラム〉です。


2019年10月2日 ·
【あそびのじかん】
絵の具遊びのあと、道具を洗っていたら
声をかけてきた子がいました。
「なにしてるの?」
 「あらってるの。」
「ふーん。きょう、なにしたの?」

何度か誘ったけれど
絵の具遊びに
加わらなかった子でした。

 「絵の具で遊んだよ。」
「ふーん。」
 「来週もやるけど、やる?」
「んー。よごれるからなー。」
 「来週は机も出すから
  汚れないでできると思うよ。」
「ふーん。」

その日。
絵の具遊びを始めても
その子は部屋に入りませんでした。
気づいたら庭に遊びに行っていました。

けれど、ほとんどの子どもが
絵の具遊びを終えて
部屋に誰もいなくなった頃
入り口から中を覗いていました。

声をかけると部屋に入ってきて
机に座って、好きな色を選びました。
1枚目の紙を絵の具で一杯にすると
「ねぇ、てで かいてもいい?」と
聞きました。
 「どうぞ。」

両手を絵の具だらけにして
2枚目の紙も描きました。
そして、手を洗って
「じゃあね。」と
生活の場へ戻っていきました。

ココロが動くタイミングは
ひとりひとり、違うペースで
やってくるのですね。
いつもいつも、そのタイミングに
環境を合わせられる訳でもないけれど。
少しでも、応えられる大人でありたい。


2019年10月3日
【あそびのじかん】
洗濯ばさみを入れたカゴに
S字フック型の
ひっかけるところがついていて。
これが、階段の手すりに
サイズがぴったりなんだな。
階段の手すりを
カゴが、しゅーんと滑る、という
面白い遊びを、子どもが発見。

作るしかない。

セロテープの芯に紐を通して
箱をぶら下げる。
紐を張ってセロテープ芯を通せば
紐の傾斜に合わせて箱が滑り降りる。

試しに走らせてみたら
あれよあれよと、みんな集まってきて
走らせることではなく
滑り降りる途中で箱をつかまえたくて
みんなが手を伸ばした。

なるほど、
そっちが楽しいんだね。
それも、いいね。

楽しいことって
自分で作れるし
自分で見つけられるし
自分で変えていいんだ、って
思ってくれたら
私は、それが、うれしい。

楽しいことは自分で作れる、
という実感って
大事だと思っているんだよね。

どんなに大きくなっても
楽しいことは自分で創り出すしかないから。

それを小さいうちに
味わえたらいいと思っているんだ。


2019年10月9日
【あそびのじかん】
色の粘土で遊ぼう、と思って
粘土に絵の具で色をつけて
準備をしていた。

当然、「やらせて」って
やってくる。
「手伝うよ」なんて言って。

「おねがいね」って
答えるんだけれど。

「青、まぜたい」
「うまくできない」
「ピンクにする」
「手がつかれてきた」
「あー、もうやーめた」
・・・
「やっぱり、もう1回やる」
「そっちの色、やりたい」
「へび、つくっていい?」
「わーぐちゃぐちゃになったー」

とかとか。
色々なことが起きるのです。

自分ひとりでやった方が
もちろん、早い。

とはいえ。
「あしたも、やろうね」
って言ってくれて。
そのうち、直接関わってない人も
「やりたかった」
「わたしは、みどり」
「あした、なにするの?」と
[つづき]を期待していて。

もう、あそびは始まってる。

効率よく、とか
そういうこととは
違うところに
あそびの入り口は
あるんだろうなぁ。


2019年10月11日
【あそびをおもう】
大人にとって都合のよい
振る舞いをする子どもだけを
「良い子」と評価することは
なんだか違うよね、という問題意識は
随分、目にするようになった気がします。

でも、だからって
逆に、自由奔放な姿だけを
「これが本来のこどもだよね」
って、とらえれば済むほど
簡単なことではないよね、
とも、思うのです。

例えば。
外に遊びに行く。
遊具の使い方を守って
順番を守って遊ぶ子もいる。

広いところに出た瞬間に
身体が勝手に動き出しす子もいる。
大人は、安全のために目を離せない。

そして、そのどちらでもなく

何をして遊ぼうかと決めるのに
時間がかかる人もいれば

大人の言葉では、
何をしていた、と言えないような、
何でもない時間を過ごす人もいる。

たぶん、あまり、大人を困らせない。
目につく派手な遊びもしていない。

でも、そういう人たちの在り方も
いいね、って
目を留められるようでありたいと思う。

そして、
何に興味を惹かれてるのか
何をやろうとしているのか
意識して観られたらいいと思う。

こんな子がいてね、という
エピソードを伝えても
言葉では伝わりきらないような
何気ない子どもの姿の中に
実は、1人1人の
その子らしさがあるんだと思う。


2019年10月23日
【あそびのじかん】
外で遊んでいて
ティッシュを使おうとしたら
風がさっと吹いてきて
ティッシュが、
ふわっと飛ばされた。

そしたら、もう
ティッシュの最初の目的なんて
すっかり忘れて
ティッシュを追いかけて
つかまえて
また、飛ばして
「まてまてー」って言いながら
追いかけて
つかまえて
また飛ばして・・・

というエンドレスな遊びが始まった。

そのうちに、2枚重ねのティッシュが
1枚ずつになると
もっとふわふわと飛んでいき
それを見ていた、他の子も
私も、私も、と
ティッシュを欲しがるのでした。

大人にとっては
偶然生まれた遊び、
かもしれないけど
彼らにとっては
自分で見つけた遊び、
なのかもしれない。

この瞬発力も魅力だな、と思うし
同時に
この楽しい気持ちを広げられるような、
次の展開につながる道具や環境を
さりげなく用意したい、とも思う。
それが押し付けにならずに
子どもの楽しい、に添うためには
どういう方法がいいのかなぁ。

1つの答えはないけれど。

こんな風に考えたり
試してみたり
誰かをシェアしたりする
その過程こそが
子どもの遊びを
豊かにするのだろうと
信じている。


2019年10月24日
【あそびのじかん】
木の実を拾った。
食べるマネをして遊ぶ。

あむあむ、って
クチを動かすだけじゃなくて
クチを、あーん、ってあけるので
「あー、ホントにクチに入れないよ」
って言うと、
にやり、と笑って、
クチを閉じる。

私が、そだね、ってうなづくと
また、あーん、とクチをあけて
木の実をクチに持っていく。
だから、えぇっ、と驚いた顔をしてみせると
また、にやり、と笑って、
クチを閉じる。

3回目くらいになると
あーん、と、クチを開けた時から
もう、にやにやしていて
私が驚いた顔をしてみせると
笑い崩れている。

それでも、「あーん」と、びっくり、の
2人の無言の百面相は延々と続き・・・

誰かとのやりとり、
意図と意図とのキャッチボールって
こんなにも楽しいんだね。


2019年10月29日
【あそびをおもう】
広い場所がうれしくって
走っている。
最近、走れるようになった子どもが
走れることそれ自体がうれしくって
走っている。
すぐに、ぽてっ、と、転ぶ。
でも、転ぶことさえも、楽しそうに
また走り出す。

すごく大切なあそびだなぁって思う。

子どもは、今の自分に必要なことを
楽しい、という気持ちに置き換えて
充分に実践してるんだな。

何度も転んで、何度も走ればいい。
それは
言葉そのものの意味も
比喩的な意味も、
両方の想いを込めて。

私の記憶の中では
「走っていた」時の写真なんだけど
今、見れば
ちっともスピードが出ていないことに気づく。
彼にとって
自分史上一番の走りは
親である私にとっても、
「今まで見たことのない早さ」
だったんだろうな。きっと。