目の前のことを ひとつずつ

夢をかなえるって、どういうことなんだろうかと考えていました。

大人として生きている年数が長くなるにつれ、〈就きたかった職業に就くこと〉よりも、〈その職業に就いて何をするか〉に意識が向くようになってきました。

もっと言えば、たとえ就きたかった職業じゃなかったとしても、与えられた場で、できる限りの働きをすることって、本当に大切だなぁ、って感じるようになってきました。

そして、自分が与えられた場で、チカラを尽くしたことが、
誰かを助けたり、
誰かのお役に立てたり、
誰かを喜ばせたりできるなら、
それは、自分が生かされる、充分に幸せなことだなぁと思うようになりました。

だから、○○という職業に就くこととか、目に見えるような大きな功績とか、分かりやすい成功とか、有名になることとかを、人生の目標におかなくてもいいんじゃないかな、と思うのです。

以前にも【「すぐ隣にいるあの人の人生」にドラマを感じるようになった】という記事を書きましたが、その時に感じた「当たり前の毎日を大事にする気持ち」を、改めて感じます。

1日1日、目の前のことに誠実に向き合い、誰かのお役に立てることの有難さを1つ1つ味わえる心を大切にしたいのです。

・・・と書いてきたことは、これから社会に出る若者に向けるのではなく、私自身に向けた言葉です。

正直に言えば、有名になった方が仕事のチャンスも増えるし、自分を大きく見せるための実績も欲しいよなぁ、って思っています。目の前のことに1つ1つに丁寧に向き合う気持ちを、ついおろそかにして、華やかな仕事に目が向いてしまうこともあります。
いえ、もっとシンプルに、褒められたいし、認められたいです。

でも、そういう、自分を飾ってくれるものを目的とすると、どこか、自分の仕事が空虚になるような気もするのです。

自分のできることに1つ1つ向き合う、その先に結果として、ごほうびのように、何かの実績とか、認められるとか、そういうことが訪れるんだと考えるようになりました。

夢をかなえる、というときの夢は、遠くや高くにあって、自分の思い描いた〈こうありたい姿〉のことで、それを実現できるように、高みを目指すようなイメージがあります。

でも、現実的な夢、というのは、遠い世界の理想郷ではなくて、日々の積み重ねの先に、気づいたら〈こうありたい自分〉になっている、ってことだったらいいなぁ、と今は考えています。遠くにあるのではなく、自分の中にある種を育てているうちに、かつて思い描いた夢の形に近づくような。

そんなことを考えていたら、以前に読んだ その幸運は偶然ではないんです! 夢の仕事をつかむ心の練習問題 [ ジョン・D.クランボルツ ]という本のことを思い出しました。計画的偶発性理論、というものについて紹介されたものです。キャリアの多くは予想しない偶発的なことによって決定されるからこそ、その偶然をとらえる柔軟性と行動力を大切に生きていきたいと思ったものでした。

そんなイメージを持ちながら、まずは、自分が生かされていることの有難さを感じ、目の前の1つ1つに誠実に向き合っていきたいと思うのです。新年度ですしね。がんばろう、わたし。