〈いい子〉でいたら、いけないのかな?

子どもたちに対して、〈いい子〉な振る舞いを求めるのはやめたほうがいいよね、と考える人が、じわじわと増えているように感じます。

ここで〈いい子〉と言うのは、ステレオタイプ的な意味で使っています。「大人の言うことに素直に従う優等生」くらいのイメージです。

子どもをコントロールしない

〈いい子〉であることを求めない方がいい、と思う人が増えている理由の1つは「子どもをコントロールするのではなく、個々の在り方を尊重することが大切だよね」という意識の広がりにあると思います。
子どもの在り方に対して、大人の理想や希望だけを押し付けない、という考え方が土台になっています。

まず、子どものありのままを尊重する。自分を大切にされた実感がある子どもは、安心感を持って、他者を慮ることや所属するコミュニティでの振舞い方を知ることができる。〈いい子〉という型にはめなくとも、1人1人の在り方を尊重しながらコミュニティの一員になっていけるよね、という過程を思い描いているかと思います。

自分の意思で社会を生き抜く

そして〈いい子〉を求めないもう1つの理由は「これからの社会は、従順なだけでは生きていけないよね」という課題意識が広がっているからではないでしょうか。

これからの時代に必要なのは、既存の在り方に疑問や問題意識を持ち、自ら考えて行動できる人。
だから、自分の感性や感じ方を持ち、受け身にならずに、時には批判も恐れずに、自分の意思で行動できる実践力も必要だよね、と考える人は増えています。

〈いい子〉でいたら、いけないのかな?

ところで、子どもたちを〈いい子〉という枠にはめない、という考え方については、全体的には「そうだよね」と同意するのですが、その一方、心がざわざわ・・・するのです。

それは、既存の在り方(例えば、学校と言うシステム)にそれなりに適応して、大人の意図をそれなりに汲んで過ごした、〈いい子〉だった「私」を批判されているみたいに感じるからだと思います。

子どもの在り方に対して、大人の理想や希望だけを押し付けない、と考えるならば、全ての在り方を認めればいい。

しかしながら、「〈いい子〉像にとらわれないことが大切」と強調するために、【これからの時代を生き抜くには、誰かの指示に従うだけのいい子よりも、やんちゃすぎるくらいの子がいい】なんて言い方も、しばしば目にします。片方の評価を高めようとして、もう一方を相対的に下げる手法は、下げられた側にとっては、心地よいものじゃありません。

いい子でいたら、いけないのかな?

〈いい子〉はどうしたらいいか

そもそも、大人が勝手に名付けた〈いい子〉っぽい気質を持っている全ての人が、大人からの期待に応えようとして、常に自分を抑圧しているかどうかは分からないし、四六時中受け身かどうかも分かりません。

ルールを窮屈に感じる人もいるけれど、ルールがあると安心する人もいます。

自分がやりたいことを実践して満足する人もいれば、周りの人の期待に応えられることに満足感を得る人もいます。

制約にとらわれない自由なアイディアを考えるのが楽しい人もいれば、アイディアを実践する段取りを考えるのが楽しい人もいます。

イヤなことがあればケンカも辞さない人もいれば、自分が我慢することで、丸く収めようとする人もいます。

後者のような人たちを、〈いい子〉過ぎてつまらない、なんて言って欲しくないのです。

確かに自分の内から湧いてくる想いに突き動かされて行動するタイプではないかもしれません。「前例とか気にしなくていいから、自由に、伸び伸びと、やりたいことをやりなさい」と言われても、どうしていいか戸惑うかもしれません。「エライ人の言うことに従うだけじゃだめだ、もっと批判的精神を持って対抗しなさい」なんて言われても困ってしまうでしょう。

でも、そういうタイプの人が、受け身で自主性がない訳ではない。その人たちのスタイルに合った「自分で考えた行動」「主体性を持った行動」を実践すればいい。

例えば、【意思を持って他者をフォローする】こと。

誰かの行動や考えを、「いいな」と感じて、一緒にやろうと決めて、行動に移すには、充分に主体性が必要です。
誇りを持って、追随者になればいい。その時に、みんなが応援しているから、ではなく、「誰かが始めたコレを、私が一緒にやりたい」と自分で決めれば、それでいい。
ルールがある方が落ち着く人にとっては、安心して自分の考えを巡らせたり、行動に移したりできます。

最初に始めた人にとっても、一緒に取り組む仲間がいれば「できること」の可能性が広がります。他者の目線が入ることで、質も多様になるかもしれない。

いいじゃないか、〈自分〉なんだから

だから「これからの時代は、〈いい子〉というだけでは物足りないのかな」なんて心配している〈いい子〉気質のみなさんに、声を大にして言いたい。

いいじゃない、それが〈自分〉なんだから、って。

0から何かを生み出すことだけがが、自主性じゃない。既存の枠組みを刷新することだけが、批判的精神でもない。
誰かが始めたことに意思を持って加わることも自主性だし、既存の枠組みの持っているいいところを指摘したり言語化できたりすることも、改革視点だと思う。

誰かが勝手に言っている〈いい子〉なんて概念は、気にしなくていい。〈いい子〉である必要もないけれど、〈いい子っぽい〉ことが悪いわけでもない。

そして繰り返しになるけれど、〈いい子〉だからOK、って言ってる訳じゃない。〈自分〉だからOK。その〈自分〉の中に、いわゆる〈いい子〉っぽい要素があるかどうか、そんなことは、大事じゃない。

誰もが、自分が自分でいることに誇りを持ちながら、自分らしい物事への関わり方を見つけていけたらいいな、と思ったのでした。