絵本のを会を開催する時、必ず持って行く絵本があります。
『はるかぜのたいこ』。
いつも必ず読むわけではないけれど、子どもたちが充分に絵本の世界を満喫して、大人たちもちょっと落ち着いて聴けそうかな、という状況になった時に、「大人のかたに味わってもらいたい本」として読む、私の定番。
さむくて さむくて たまらない うさぎのために、くまのがっきやさんが、楽器を使って、あたたかくなる方法を教えてくれます。うさぎが、その方法を試してみると・・・というお話。
自分がくまのがっきやさんの立場だったときに、こんな風に「ちょうどいい」関わりができるだろうか、と、大人としてはっとするお話だと思うのです。
つまり、さむい、という〈困りごと〉がある時、うさぎは自分から、くまのがっきやさんの門をたたきます。くまのがっきやさんは、楽器を使ってあたたかくなる〈方法〉を教えてくれると、その楽器を「やってごらんなさい」と、うさぎに手渡します。やってみるのは、うさぎ自身。最後には、効果を実感したうさぎが、その楽器を買って帰るのですが、その間、くまのがっきやさんは、ずっと、見守っていました。
つまり、くまのがっきやさんは、〈困りごと〉を先回りしたりしません。うさぎ自身が「寒い」と言えるまで、たぶん、ずっと待っていました。そして、うさぎが助けて欲しい時には、必ず迎え入れます。
そして、寒さを解決するために役立つ楽器(方法)は渡すけれど、でも、変わりにやってあげたりはしない。うさぎ自身が、自分の力で状況を変えることを、じっと見守っているのです。
子どもの「困ったこと」の中には、子どもからの発信がなくても大人が気づいてあげた方がいいような深刻な状況の場合もあります。そのような状況の時は、早々に気づき、子どもを救い出さなくてはいけない、というのは当然のことです。
でも、そういう大人の介入が必要な「困りごと」ではなく、彼ら自身が解決できる「困りごと」について、結局おとなにできることは、手段を伝えることだけなんだと思うのです。
ちょっとした「困りごと」の場合は、子ども自身は、それを困りごとだと思わずにいるうちに、いつしか気にならなくなる場合もあります。ところが、大人が先回りして「こんな状況なんでしょう?」「こんなこと困っているんでしょう?」って言いすぎてしまうと、子どもも「あれ?今のこの状態って、困っているってことなのか?」と意識してしまい、本来大したことなかったことが「困りごと」へと昇格してしまう場合だってあるのです。
そして、何より大事なのは「解決」の部分。こんな風にしたら、たぶん、うまくいくんじゃないかな、という方法を伝えたとしても、実行するのは子ども自身です。子どもが自分で乗り越えられそうな大きさの「困ったこと」については、それを自分自身で乗り越えるという経験を、大人が横取りしてはいけないと思うのです。自分の力で解決した、自分の力で解決できる、という経験が、次につながるのです。親切心のつもりで、大人が解決してしまっていはいけません。
大人の価値観で見ると、「困っているんじゃないかな」と思うことは沢山あります。うまく友達が作れていないんじゃないか、忘れ物が多くて困っているんじゃないか、分からないことをうまく言い出せずにいるんじゃないか・・・。でも、ぐっと我慢。
大人にできることは、「どうしたらいいかな?」と相談してきた子どもに、解決のヒントになりそうな手段を教えることだけです。その方法通りにやってみるのか、自己流でやってみるのか、やってみないのか、それは子ども次第。大人にできることは、きっと「そこまで」。変な言い方ですが、その「もどかしさ」こそが、子どもの育ちに向き合う醍醐味だと思うんですよね。
もどかしい想い、味わいましょう。大人の心が試されています。