批判をする時には愛情がほしい

大きなものへの批判の想いを言葉にすると、それに対して、多くの人が一斉に、わーっと共感して、そうだそうだと批判の言葉を重ねる。

という在り方を、何だか居心地悪く感じる。

いいとか悪いとかじゃなく、私の、ごくごく個人的な感情の話。

元の批判の内容そのものは、私自身も、〈そうだ、それは、大きな課題で、何とかしなくちゃいけない!〉と感じるものもあるのだけれど、そこにみんなが批判の言葉を重ねる様子を見ていると、なんだか、こわくなってくる。

そういう時、批判の対象は、昔からのしきたりとか、古い考え方とか、行政手続きのナンカとか、政治とか、大企業とか、メディアとか・・・なんだか、「叩いても差し支えない」って、私たちが思っているような、「大きなもの」であることが、ほとんどで。

批判の内容自体も、とても真っ当で、人道的で、共感したくなるものばかり。

でも、そこに、みんなが批判を重ねていく様を見ていると、それで良かったんだっけ・・・と、居心地が悪く感じてしまうのだ。

社会の価値観が変わりつつある今だからこその批判

今、私たちは、社会の価値観が変わりつつある、その変化の真っただ中にいるように思う。

それは、1人1人がありのままの自分で在ることを、認め合い、肯定しあおう、という方向に、向かっているようだ。生きずらさを感じている人たちにもっと目を向け、もっともっと配慮していこうよ、という風になろうとしている。
望ましいことだと思う。

でも、「価値観」ってものは、そんなに、全員が一斉に変わったりしない。

いや、そう言っている私自身だって、今、社会が向かおうとする価値観が完全に身に付いたか、と言われれば、自信はない。自分が学んでいる分野については、個を尊重する考え方ができているつもりでも、そうじゃない場面では、できていないかもしれない。悪気はなくとも「〇〇なんだから、がんばりなよ(属性による決めつけ)」とか「努力が足りないんじゃない?(前提条件の違いへの無配慮)」とか、言ってしまっているかもしれない。

今まで、無意識に、「こういうもの」だと思っていたイロイロが、変わりつつある。社会の規範が先に変わろうとし、そこに、1人1人の感じ方が追いつこうと必死になっている。

社会は、一瞬では変わらない、そのギャップの上と下とで、批判したり、されたり、ということが、今までよりも、目につくようになったように感じる。

批判の先の人は「敵」ではなく「立ち位置が違うだけ」だと思う

批判してはいけない、って言いたい訳ではない。それでは「自分さえ我慢すればいいんだ」と苦しい気持ちを抑えて、個人が大切にされない状況がずっとずっと続いてきた今までと変わらない。ここが課題だとか、これは困っているとか、もっとこうした方が良くなるとか、そういう声を挙げることは、もちろん大切。

ただ、そこに、愛情が欲しい。

だって、批判を向ける先にも、自分と同じく現状に心を痛めている誰かがいるかもしれない。大きな組織の中にあって、中から変えられることはないかと模索している人がいるかもしれない。できるところから、少しずつ何かを変えようとしている真っただ中かもしれない。

批判を向ける先にいる人は「敵」ではない。きっと、何かしらの課題意識を共有しているけれど、ただ立ち位置が違うだけの人なんだと、私はそう思いたい。

だって、現場の人たちは、いつでもみんな、自分の目の前のことに、誠意を持って取り組む人たちだった。批判されるような大きな会社の社員さんも、教育や保育に携わる人たちも、窓口の人も、自分のできることの中で、今の価値観の変化を受け止め、何ができるかと模索している。私には、そう見える。

〈愛情〉なんて、抽象的な言葉を使ってしまったけれど、批判をする時に、ちょっと立ち止まればいいんじゃないか。言葉の選び方。必要以上に攻撃していないか。全面否定していないか。自分の思い込みで批難していないか。変化しつつある現状に敬意を持てているか。・・・ちょっとだけ意識すれば、随分変わると思う。

「叩いても差し支えない相手」なんていないんじゃないのかな?

目的は批判することではなく状況を好転させること

こういう話は、理想論でキレイごとかもしれない。そして、キレイごとかもしれないことを言うのは、案外、勇気がいる。苦労知らずだね・・・って、受け止められるのかもしれない。

それでも、やっぱり思う。何かうまくいっていないことを指摘すれば、状況が好転することは多々ある。でも、その指摘/批判には、愛情がほしい。批判の先には、「大きな組織」ではなく、1人1人の人間がいて、その人たちとも、同じ問題意識を共有できるかもしれない、と思いながら、愛情を持った批判の言葉を向けられたらいいのに、と、そう思う。