自分でちゃんとジタバタしないと 学びは得られない

「私が本当にやりたいことは何だろう」という問いは、一度手放すことにした、と、書きました。

さも、自分が思い至った気づき、みたいな書き方をしてしまったのですが、実は「何がしたいのか、っていくら探しても、思いつかないものは仕方ないよ」っていう意味のことは、数年前に、折々に相談をしている人にアドバイス頂いたことでした。

でも、その時は、言葉の意味は受け取れても、心が受け取ろうとしなかったのです。ちがう、きっと、まだ見つける方法が分かっていないだけで、きっといつかできる、って。

その頃と、今と、何が変わったのか?
たぶん、あきらめがついたんだと思います。

あきらめがついた、って言うと、身も蓋もないのですが、別に、ぼーっとしていて、やっぱりできないから、あきらめよーっと、っていう訳ではなくて、私なりに、ジタバタしてきた。

ジタバタしたからこそ、数年前のアドバイスが今になって、すとん、と心に落ちてきたように思うのです。

これは、自分が誰かに何かを伝える時も一緒だなぁ。

とりわけ、子どもたちと一緒にいると、色々なことを先回りして教えたくなります。「そんな風にお茶を注いだらこぼれるよ」とか、「絵の具のその色を混ぜたらエライことになるよ」とか、「計算問題はこうやると簡単にできちゃうよ」とか、まぁ、大小あらゆる〈ライフハック〉を伝えたくなるのです。

でも、子どもたちは、こぼれるよ、と言われても、その方法でお茶を注ぎ、そして、こぼします。子どもによっては、何度も同じ失敗をして、こぼします。何度もこぼして、その子にとって、何かが腑に落ちた時に、「あー、こうやったらこぼれないんだね」って、突然気づくのです。「最初からそう言ってるやん」って思うのですが、いくら言葉で説明されても、彼らの身に付く訳ではない。自分で経験するから、覚えるのです。

ごく小さい子どもと接して、だんだん器用になったり、だんだん世の中を知っていく過程では、身に付けることが目に見えることだから、「自分で経験するから気づくんだね」「だから失敗することって大事なんだね」って、伝わりやすいかな、と思います。
忘れずにいたいのは、年齢があがっても同じってこと。小学校高学年以上になってくると、その中身は目に見える〈できる〉とは限りません。「いつかやろう、と思うといつまでもやらない」「SNSを一度開くとあっと言う間に時間が過ぎる」みたいな、大人が自分の身を振り返って反省するような事態に子どもも陥っていて、ここにも先回りしてアドバイスしたくなりますが・・・、やっぱりこれも、子ども自身が失敗したなぁ、って気づいて、自分で何とかしようと思って、ジタバタしないと、大人のアドバイスって響かないものです。

だからこそ、〈思い通りにいかなかったこと〉に直面した時に、「だから言ったでしょ」って言葉をかけるのではなく、あぁようやく、自分の学びを獲得する入り口に立てたね、って思った方がいいのかなぁと思います。

もちろん、大人だし、親なので、色々余計な言葉をかけてしまったりするのですが、それは、今すぐ届かなくていい。子どもたちが、適当に聞き逃してくれて、自分でちゃんと失敗して、自分でジタバタして、いつか自分で気づいて獲得した時に、あぁそう言えばあの時に大人がそんなこと言ってたなぁ、って答え合わせする、という学び方がいいな。そういう学び方を喜べる大人でいたいなぁと思うのでした。