人生には「すきま」が必要だ

私は「あそびの専門家」です。専門としているのは、身体を動かしたり、手を動かしたり、考えたりする「行為としての」あそびです。

一方、「あそび」という言葉は、他の意味で使うこともあります。

機械工学の〈アソビ〉

〔機〕機械の部分と部分とが密着せず、その間に或る程度動きうる余裕のあること。「ハンドルのー」(広辞苑 第四版)
 ※〔機〕というのは、〔機械工学〕の分野の学術語/専門語とのこと

「機械工学の」アソビは、わざと作った隙間です。例えば、温度や湿度などで素材が膨張したり伸縮したりした時に、変化によって歪みやズレ、破損が起こることを防ぐ目的があるそうです。

分かりやすい例で言えば、電車のレールは、つなぎ目に少し隙間(アソビ)があります。(だから、電車が通る時に、ガタンゴトン ガタンゴトンと音がします。)電車のレール=鉄は、熱によって膨張します。ですから、もし、アソビがなければ、熱によって鉄が膨張した時に、レール同士が衝突して曲がってしまうのです。

また、歯車のように互いに噛み合って動く機械は、アソビがないと動きません。

一寸の隙もなく作るのではなく、最初から、変化や動きの可能性を見越してわざと隙間を残すことが、機械を長持ちさせたり、スムーズに動かしたりするために必要なんですね。

概念としての〈遊び〉

考えてみれば、機械工学のアソビと同様に、日常生活の中でも、必要と必要の間の隙間みたいなものを〈遊び〉と呼びます。

「人生に遊びを持とう」と言う言葉は、大人になってからも鬼ごっこやしりとりをやろうね、などと言いたい訳ではないでしょう。生きるための最低限の営み以外を、私たちは〈遊び〉と呼びます。言わば概念としての〈遊び〉です。

会議と会議の合間のちょっとした会話。目的地に行く途中に立ち寄るお気に入りの店。わざわざ遠くのパン屋で買うパンの美味しさ。仕事を頑張った後の乾杯。誰かの記念日に企画したサプライズ。

機械工学の〈アソビ〉は、ただの隙間ではなく、機械のために必要です。それと同じように、概念としての〈遊び〉も、ただの隙間ではなく、人が生きるために必要だということは、多くの人が実感していると思います。「必要じゃないことが、必要」なんです。

〈遊び〉が足りない

最初の緊急事態宣言から1年半。
今まで当たり前にやっていたアレコレを我慢する、という生活が随分長くなりました。たぶん、本来は人と人との直接的な接触を減らすことが目的だったと思うのです。ただ、人と人との直接的な接触を減らそうとしていったら、誰かと食事をすることも、スポーツも、音楽も、旅行も、街をぶらぶらすることも・・・、生活のための最低限の営み以外は、我慢しよう、というニュアンスになってしまいました。

まさに、概念としての〈遊び〉がない状態です。

ちょっとした隙間や、余白や、ゆとりは、私たちの生活に必要なものでした。隙間時間の会話からお互いに親しみを感じて、ちょっぴり仕事がやりやすくなるとか。仕事が終わったあとに好きなものを食べることが日々の励みになるとか。目的の本の隣に面白そうなタイトルの本を見つけるとか。目的地までの道を歩きながら解決のヒントがふと浮かぶとか。

隙間を取り除いて取り除いて取り除いた生活は、無駄がなく必要なものだけが凝縮された生活かと言えば、決してそうではなく、むしろ、生きるためにもっと大切なものまで取り除いてしまったように見えます。

隙間のない歯車が回らないのと同じように。

〈遊び〉のための場をつくったら、どうかな?

生きるために今すぐ必要そうには見えないけれど、実は生活において必要な「不必要」を、取り戻さなくっちゃ、と強く強く感じます。日々の生活を喜び、感謝して、未来にわくわくするために。

こんなに長い時間をかけて我慢してきた〈遊び〉を取り戻すためには、「生活の隙間を楽しもうね」などというスローガンだけでは足りないかもしれません。みんなが自分の生活の中で、少しずつ、目に見える〈遊び〉のための場所を、整えたらいいと思うのです。

〈遊び〉というのは、概念としての〈遊び〉なので、遊具や、おもちゃや、絵本がある場所、という意味ではありません。いつもの場所に、「隙間のための場所」を整える、ということです。

例えば、リビングに、新しく見つけたお店のお菓子を置いておく。
外が見える場所に、椅子を1台出してみる。
図書館の本を予約して、借りに行く。
ちょっと高いコーヒー豆を買う。
会社の一角に、畳を敷き、お茶を入れて、寛げる場をつくる。
学校の1部屋にクッションを置き、落ち着く音楽をかけて、心と身体が休まる部屋にする。

私たちが生きるためには、食べて・仕事して・寝る、だけではなくて、隙間が必要です。豊かに生きるとか、人間らしく生きるとか、そういうことを目指すのではなく、「最低限 生きる」ためにも、隙間が必要だよね、ということを、改めて思い出したいのです。

明日は、ちょっと遠くのお店まで、おいしいものを買いに行きませんか?