安全な場所って 自分にちょうどいい危険に挑める場所じゃないかな

先日、自分でジタバタしないと、学びは得られないよね、という記事を書きました。他者から言葉で伝えられても、自分で腑に落ちないと学びにはならない。そのためには、失敗が必要だし、ジタバタする経験が必要だよね、というような内容です。

知り合いがコメントをくれました。
世の中には、大人でも人生を破綻させてしまうような危険な世界があるので、そこに子どもがアクセスできるようになったのはやっぱり心配だよね、とのこと。そういう危険な世界を体験するのは、一定以上の年齢になってからにして欲しいよね、というようなコメントでした。

その人は、ネットゲームなどをイメージしていたのですが、私は、手作り園庭に関する本で、遊具について書かれた内容を思い出しました。

子どもが自ら育つ園庭整備 挑戦も安心も大切にする保育へ [ 木村歩美 ]

冒険あそび場の遊具や、手作りの遊具の中には、建物の2階や、それ以上の高さのある遊具があります。
この「高い遊具」は、ほとんどの場合、上にのぼるための、階段やはしごなどのツールがないのです。ロープが1本、ぶらん、と、さがっているだけだったりする。なので、そのロープ1本で、自分の背よりずっと高いところに身を運べるような、「身体の使い方ができ」「高いところは危険だという分別がある」人だけが、上ることができます
だから、外観だけ見ると、すごく高くて危ないように見えるけれど、実情は自分で判断できる子どもだけが上れるという構造になっているんだ、というような内容が印象的でした。

もし、「小さい子も高いところに行きたいだろうから」と、はしごを付けてしまえば、その途端に、危険の判断ができない人も高いところに行けてしまい、それまで問題のなかった遊具が「危険な遊具」になってしまうことは、容易に想像がつくと思います。
はしごのない状態こそが、危険に備えるチカラと、到達するチカラとのバランスが、ちょうどいい状態なんですね。

考えてみれば、元来、子どもを取り巻く世界は、特に意識しなくても、そのバランスがいい具合だった気がします。

放課後、遊びに行く時に歩くしか手段がなかった時、冒険は「通ったことのない細い路地を通ってみること」でした。薄暗くて、狭くて、でも通り抜けた先が、意外なところに繋がっていて、大発見をしたような気持ちでした。
自転車に乗れるようになれば、冒険は「学区の境の道の向こう側に行くこと」になりました。子どもだけで、こんなに遠くまで来たのは初めてだ、って思うだけで、わくわくしました。
バスや電車に乗れるようになった時、自分のお金を持つようになった時、子どもだけで特急電車に乗った時・・・と、ステップアップする節目はいくつもありました。年齢を重ねて、理解力や判断力がつき、それに伴って、順々に、行動できる範囲が広がり、できることが増えたのだと思います。出会うかもしれない危険もそれに伴って大きくなっていったはずですが、成長に伴って危険が大きくなっていったので、あまり問題視されなかったのでしょう。

子どもにとって、危険が何もない状態が「安全な環境」かといえば、決してそうとは言えません。子どもの育ちの過程の中では、自分で向き合える程度の危険がある状況で「どうしたら自分の身を守れるか」を経験し、対処法を身に付けていくことが必要だからです。克服するべきものが何もない環境は、ずっとその中にいるうちは「安全」かもしれないけれど、危険への備えが何もできません。長い目で見たら最も危険な環境かもしれないのです。
また、多少の危険は必要とは言え、対処できない危険がある環境は、「失敗から学べる」と思っていた「失敗」が取返しのないことになるかもしれないないですから、やっぱり要注意ですよね。(知人が指摘してくれたネットゲームの世界は、きっとそういう場なのだと思います。)

きっと、安全な場所って、危険のない場所ではなく、自分にちょうどいい危険に挑める場所なんですね。

子どもがある程度の年齢に達するまでは、子どもの周りの危険を、ある程度調整したり整えたりするのは、保護者の役目です。出かけていい範囲や時間、やっていいこと悪いこと、使っていいものダメなもの、などの親子ルールを作る場合が多いと思います。
保護者の役目とはいえ、自分の子どもにとって「ちょうどいい危険」がどれくらいなのか、匙加減は難しいです。親たちが子どもの頃とは世間が変わりすぎているし。子どもだってどんどん変化していくし。周りの友達の影響も受けるだろうし。インターネットの世界は目に見えにくいし。
結局、子どもの成長の過程に応じて、日々調整していくしかないのだと思います。世間の平均的な安全に合わせるのではなく、ではなく、自分の子どもに合わせる。
そして、いつもの話ですが、子どもの育ちに向き合うって、想定通りじゃないことの連続です。間違って当たり前。「ちょうどいい危険」の判断を少々間違うことがあっても、間違えちゃったね、って言いながら、また調整すればいいのです。そんな風に、親子で一緒に調整する過程そのものが、子どもたちの危険に対する認識を高め、対処のチカラを育てることに繋がるんじゃないかな、と思うのです。

適度な危険に挑みながら、大きく育って欲しいなぁと思っています。